ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』

はじめに

 『プロ倫』の愛称で親しまれる本書。

 ウェーバーの見事な分析力は、一流探偵小説の推理を読んでいるようだ。



 禁欲主義を旨とするプロテスタンティズムの倫理が、実はそれと相反する、金儲け主義の資本主義の精神を生んだ主要要因であったということを、ウェーバーは本書で精緻に実証していく。

 しかしこの「実証」は、その後歴史学者のブローデルやウォーラーステインらによって激しく批判され、今日ではそれほど説得力のあるものではなくなっている(ブローデル『歴史入門』ウォーラーステイン『近代世界システム』のページ等参照)。

 しかしそれでもなお、本書がその後の学問界に与えた影響は絶大だ。社会科学の古典的名著を1冊挙げよといわれたら、今なお必ず最上位に位置する名著だといっていい。
 

1.本質は観点によって変わる

 最初に、ウェーバーの基本的な研究態度を紹介しておきたい。
 
「われわれが今とろうとしている観点が、ここで問題としている歴史的現象を分析するための唯一可能な観点であるというのでは決してない。観点を異にするならば、ここでも別なものが『本質的』特徴となってくることは、一切の歴史的現象の場合と同様である。」

 ウェーバーと同時代の社会学者デュルケームには、どちらかといえば「客観主義」的態度が濃厚だ。確実な客観を、社会学はとらえられる、とデュルケームは考えていた節がある(デュルケーム『自殺論』『道徳教育論』のページ等参照)。

 それに対してウェーバーは、客観などというものはなく、その本質は観点によって変わるものだと主張する。


 したがって、本書における研究もまた、絶対的な実証研究ではなくあくまでも一観点に過ぎないのだと主張する。

 科学的「実証」によって「真理」に到達できる、という科学主義全盛の時代にあって、このような考えは時代に先駆ける洞察だったといえるだろう。(この点については、ウェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』のページ参照)


2.フランクリンの思想

 資本主義の精神は、ベンジャミン・フランクリンの思想に顕著にあらわれている。ウェーバーはいう。

「われわれがこの『吝嗇の哲学』に接してその顕著な特徴として感ずるものは、信用のできる正直な人という理想であり、わけても、自分の資本を増加させることを自己目的と考えることが各人の義務であるとの思想である。」

 金銭欲というのは、古くからあった。しかしフランクリンのように、金儲けそれ自体が道徳であり義務であるとすら考えられた時代は、それまでになかった。まさに資本主義の権化たる、フランクリンの思想。

 こうした思想は、いったいどのようにして生まれたのだろうか。

 ウェーバーはこのように問う。



3.ピューリタンと資本主義

 宗教改革を経て登場したカルヴィニズムは、堕落したカトリックに対抗して、徹底的な禁欲主義を信奉した。


 そのもっとも過激な思想が、死後天国へいけるかどうかは、生前功徳を積んだかどうかにかかわらず、すでに神によって定められている、という預定説だ。これは、免罪符の発行など、ご都合主義になり下がったカトリックに対する、非常に強力なアンチテーゼだった。

 しかしこの思想に、人びとは恐れおののいた。
そして、自分がはたして選ばれた存在であるのかどうか、知りたいと思うようになった。

 が、カルヴィニズムによれば、それはそもそも決められている。


 となると、人びとは、とにもかくにも、「自分は選ばれているに違いない」と信じたいと思うようになる。

 そこで彼らは、自らの職業労働を重視した。

 なぜなら、職業とは神が人間に与えた使命であり、そしてまた、あらゆる快楽から目を背けさせるものであったからだ。

「労働は昔から試験ずみの禁欲の手段である。」

 このような、職業使命観禁欲主義生活の合理化資本の貯えといった考えが、資本主義の精神を生むことになった。

「ピュウリタンは人生のあらゆる出来事のうちに神の働きを見るのであるから、そうした神が信徒の一人に利得の機会をあたえたまうたとすれば、神みずからが意図したまうたと考えるほかはないのである。」

 そしてウェーバーは言う。そもそも禁欲主義によって生まれたこの資本主義の精神は、いまやその最初の禁欲主義を忘れ去り、独自の倫理となったのだ、と。

「今日では禁欲の精神は——最終的にか否か、誰も知らない——この外枠から抜け出てしまっている。ともかく勝利をとげた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱をもう必要としない。」


(苫野一徳)



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