デューイ『学校と社会』


はじめに

John Dewey 1896年、デューイはシカゴ大学付属小学校(その後シカゴ実験室学校と改名)を設立した。

 本書は、ここにおける実践を導いたデューイ教育思想の原理と、またここでの実践活動報告を兼ねたものである。

 ローティがデューイをハイデガーウィトゲンシュタインに並ぶ20世紀最大の哲学者、と呼んでから、いわゆるデューイルネッサンスというものが起こった。

 しかしそれまでのデューイの評価は、哲学者としてよりも、むしろ教育学者としてのものだった。

 彼が哲学者として認知されなかった理由のひとつは、おそらく彼が、まさに教育について論じ、しかもその実践を率いたことにあったのではないか。

 哲学とは、日常の実践、特に教育のようなべたべたした実践にかかわるものではなく、もっと高遠なものである、と、多くの哲学関係者たちが考えていたからではないか。

 しかし、教育を論じた哲学者デューイが、こうして自らの理論に基づきまたこの理論をより精緻化するため、さらにはひとりひとりの子どもたちのより一層の成長のため、身を粉にして教育実践に勤しんだことは、むしろ彼の「哲学」を、机上の空論に終わらせないきわめて説得的なものへと鍛え上げたはずだ。

 デューイの初期教育思想の集大成を、ここにみることができる。


1.社会的意義をもつ活動(オキュペイション)を教育の基礎に

「もしある展望のもとにおかれた目的が、社会的協力と社会的生活の精神の育成にあるというのであれば、訓練はそのような目的から生じ、そのような目的と関連するものでなければならない。」

 デューイにとって、学校とは社会の胎芽となるものだった。だからこそ、学校は本来、実社会実生活と切り離されたものであってはならない。

 ところが近代の学校というものは、たいてい、実社会とも実生活とも切り離された、「死んだ知識」を教え込むところになっている。

 デューイはまずこのことに異を唱え、学校での教育の基礎に、活動(オキュペイション)をすえるよう論じる。

「作業は、学校というものをレッスンを学ぶ隔離された場所としてではなく、それをとおして学校それ自体を活動的で、社会生活の真の一形態にするための道具として、考えなければならない」

 このことは、具体的な活動を通せばより知識を興味深く獲得することができる、ということ以上に、他者との協働によって、社会的センスを身につけるという意義をもっている。そうデューイはいう。 


2.教育観のコペルニクス的転回

「このたびは子どもが太陽となり、その周囲を教育のさまざまな装置が回転することになる。子どもが中心となり、その周りに教育についての装置が組織されることになるのである。」

 よくも悪くも、これほどに大きな注目を浴びたデューイの言葉はほかにない。

 いわゆる児童中心主義の宣言として解釈される一文だ。

 ところがこの言葉が、とにかく大きな誤解をよんできた。

 デューイは子どものわがままを放任している、としばしば批判されている。

 ところがデューイのいっていることは、そんなことではまったくない。

 それまでの教育は、学ぶべき教科が、決められた教材が、獲得すべき知識が、すべて子どもたちの存在とは無関係に設定されてきた。

 子どもたちは、自分たちの興味・関心とは無関係に、とにかく知識が知識であるがゆえに、覚えこまなければならないとされた。

 デューイは、この学習方法はまったくもって不自然だといったのだ。

 子どもたちだけでなく、そもそも人間は、自らの経験において知識を獲得する。その際の知識獲得の原動力は、興味や欲望以外ではない。

 興味・関心のないことをただ詰め込む教育は、いわばまったく非効率だし不自然なのだ。

 子どもたちの興味・関心を最大限利用すること。それこそが、教育・学びの基礎として考えられなければならないことなのだ。

 しかしこれは、決して子どもたちの興味・関心におもねるということを意味しない。

 知識獲得のプロセスの初発は、生活経験における興味・関心以外ではありえない。だから教育の役割は、この初発の興味・関心を拡大し、より長期的な目的を立てられるよう育むこと、その過程でより多くの知識を獲得させること、そして、目的達成のために、知性的に計画を立て目的を達成する力を育むことにある。

 デューイがいっているのは、そういうことだ。

 知識とは外部からむりやり与えられるものではなく、自ら獲得するものだ。教育は、そのような経験が最大限可能になるよう、状況・環境を設定する役割をもつ。

 だから、この原理に基づいた教育理論をつくっていこうではないか。単なる詰め込みは、そろそろやめにしようじゃないか。

 デューイがいったのは、そういうことなのだ。

 この初期デューイ教育思想が、その後、教育論の大著『民主主義と教育』において、より精密に論じられることになる(『民主主義と教育』のページ参照)。

(苫野一徳)

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