フーコー『性の歴史』

はじめに

 フーコー最晩年の本書は、第1巻『知への意志』、第2巻『快楽の活用』、第3巻『自己への配慮』から成る。

 第2巻第3巻が、当初の予定とは違ったものとなり、フーコーのそれまでの研究スタイルに大幅な変更があったことでも有名な書だ。
 
 日常生活に浸透し切った–権力をあぶり出す、という1巻の企てとは打って変わって、2巻3巻では、私たちはどのような主体として自己とかかわり合っているのか、がテーマとなっている。それも古代ギリシャやローマを対象として。

 規律訓練型権力理論生権力理論に続いて、さらなる本質的理論の展開があったかも知れない。第4巻も執筆されていたが、未完に終わった。知の巨人フーコーの次なるプロジェクトを、知りたかった。とても残念だ。


1.第1巻『知への意志』の目的

「どのような形のもとに、どのような水路を辿り、どのような言説に沿って、権力というものが、最も細かくかつ最も個人的な行動の水脈にまで忍び込んでくるものか〔中略〕どのようにして権力が日常の快楽に浸透しそれを統制しているのか」

 この問題を明らかにすることが、第1巻「知への意志」の目的だ。

 特に近代において、権力「知」という形式をとるようになった。それは、「性現象の科学を成立させるのに〔中略〕熱中」した。この科学的言説が、人々の生=性のあり方を決定する権力となった。

 フーコーはこの事実を暴き出す。



2.性言説の氾濫

 性はタブーであるとよく言われる。それは隠され、抑圧される。

 しかし実のところ、ヨーロッパ近代は性言説が氾濫した時代であった。そうフーコーは指摘する。

「本質的なことは、権力の行使の場における、性についての言説の増大である。性について語ることを、そしていよいよ多く語ることを、制度が煽り立てる。」

 なぜか。フーコーは言う。その原因は、カトリック教会における告解にあった、と。

「一つの至上命令が出されたのだ。掟に違反する行為を告白するだけではない、自分の欲望を、自分のすべての欲望を、言説にしようと努めるべしと。」

 続いて教育医学が性言説の氾濫に拍車をかけた。

「子供の性について語る、それについて教育者に、医者に、行政官に、親に語らせ、あるいはそれについて彼らに語る、子供たち自身に語らせる、そして子供たちを言説の網の目の中に組み込んでしまうのだ」

(医学は)「初めは『過度』の側に、次いで自慰の側に、次いで欲求不満と、更に『生殖に対する欺瞞』に、精神病の病因を求めようとする」

 教育は子どもの性について語ることを制度化し、医学もまた、性を大きく問題化したのだ。

 こうして、あらゆる性のあり方がコード化されることになる。性倒錯はことごとくカテゴリー化され、矯正されるべきものとして認知されていく。

「これほど多くの言説を通じて、人々は、取るに足らぬ倒錯を法的にますます断罪するに至った。性的に不規則なものを精神病に結びつけた。幼児期から老年に至るまで、性的発達の基準を決定し、すべての可能な逸脱を注意深く特徴づけた。教育上の管理と医学的治療法とを組織した。」


3.性の科学と権力

「我々の文明は、少なくとも一見したところでは、性の術を所有してはいない。そのかわりに、性の科学を実践している恐らく唯一の文明であろう。」

 近代は、いかに性の術を磨くかではなく、いかに性を理解するか、その知への意志にとりつかれている。そしてこれこそが権力の戦略である。そうフーコーは言う。

 しかし権力とは何か。

「権力という語によってまず理解すべきだと思われるのは、無数の力関係であり、それらが行使される領域に内在的で、かつそれらの組織の構成要素であるようなものだ。」

「権力は至る所にある。すべてを統轄するからではない、至る所から生じるからである。」

 フーコーの言う権力は、目に見える抑圧的権力のことではない。知らず知らずの間にわれわれを規定し従わしめている、そのような力学のことである。

 第1巻におけるフーコーの目的は、近代の性言説の中から、そのような権力を暴き出すことにある。


4.性的欲望の装置と生–権力

 フーコーは言う。権力の(が利用した)最大の装置こそ、性的欲望の装置であったのだ、と。

 近代まで、性関係と言えばまず婚姻関係を意味した。それは子孫を作る営みだった。

 しかし近代は、性的欲望なるものを大きくクローズアップした。われわれは性的欲望存在として規定された。フーコーは言う。

「その時に、あれらの新しい登場人物が現われる。すなわち、神経質な女、冷感症の妻、無関心な母あるいは殺人の妄想にとりつかれた母、性的不能者にしてサディックであり、かつ倒錯者である夫、ヒステリー症か神経衰弱の娘、早熟ですでに精力を使い果たした少年、結婚を拒否しあるいは女を無視する同性愛の若者がそれだ。」

 われわれは、種々の性的欲望存在としてコード化されることになったのだ。

 こうして権力は、今や–権力として現象する。それはわれわれの生それ自体を「調整し管理する」権力である。 

「生を引き受けることを務めとした権力は、持続的で調整作用をもち矯正的に働くメカニズムを必要とするはずだ。もはや主権の場で死を作動させることが問題なのではなくて、生きている者を価値と有用性の領域に配分することが問題となるのだ。」

 われわれの生をまるごと調整管理する権力。それが近代の権力なのだ。そうフーコーは主張する。

 しかしそれがばれてはまずい。権力は工夫をこらす。そこで権力は、むしろ「権力とは性を抑圧する存在である」と人々に思わせようとする。そうすることで、人々の生をまるごと管理しようとする思惑を隠蔽したのだ。

 以上が第1巻におけるフーコーの主張だ。



5.第2巻『快楽の活用』における主題の変更

 さて、当初以上のような生–権力の分析が続けられるはずだった『性の歴史』は、第2巻からがらりとその内容が変更されることになる。フーコーはその理由を次のように述べている。

「私を駆りたてた動機〔中略〕それは好奇心だ――ともかく、いくらか執拗に実行に移してみる価値はある唯一の種類の好奇心である。〔中略〕はたして自分は、いつもの思索とは異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方とは異なる仕方で知覚することができるか、そのことを知る問題が、熟視や思索をつづけるために不可欠である」

 何が変更されたのか。

 それはまず、扱う時代が近代からずっとさかのぼって、古代ギリシャに設定されたこと。そして、そこで主題化されるものが、権力から「自己」へと向けられたこと。他者関係における権力のあり方を分析し続けたフーコーは、ここへ来て、われわれは自らとどのように向き合っているのかをテーマとすることになったのだ。



6.性的道徳の根拠

 第2巻におけるフーコーのテーマは、古代ギリシャにおいて、なぜ性に関する厳格な道徳が存在したのかを明らかにすることだ。

 フーコーが強調するのは、道徳的主体の存在だ。

「何らかの行動が《道徳的》だと言われるためには、それを、ある規則や、ある法律や、ある価値に合致する、一つの行動もしくは一連の行動に帰着させてはならないのである。なるほど、いかなる道徳的行動も、それが行なわれる場所たる現実との関係を、しかも、それが準拠する規範との関係を含んではいる。だが自己とのある種の関係をも含むのである。この関係は単に《自己の意識》であるだけでなく、《道徳的主体》としての自己の組立てでもあって、その組立てのなかで、個人はこの道徳的実践の対象を組立てる自分自身の部分を限定し、自分がしたがう掟にたいする自分の立場を定め、自分自身の道徳的完成という価値をもつようになるある種の存在様式を設定する。」

 道徳とは、自らを道徳的主体たらしめる主体によって初めて成立するものだ。そこでフーコーは、古代ギリシャ人は、自らをどのような道徳的主体として磨き上げようとしたのかを探究する。



7.アフロディジア、クレーシス、エンクラテイア

 まず考察されるのが、「ある種の形式の快楽を与えてくれる行為や身振りや接触」を意味するアフロディジアだ。

 古代ギリシャの成人男性には、不道徳なアフロディジアの行為が2つあった。

 1つは過度、もう1つは受動である。

 したがって、いかにしてアフロディジアを楽しむか(=クレーシス)という問いにも、次の3つが正答ということになる。

 すなわち、1.欲望を節制し、2.適切な時機に、3.地位を重視して。

 これを一言で、エンクラテイアと言う。自己による自己の統御のことだ。

 ここで重視されるのは、古代ギリシャにおける自由の概念だ。立派な成人男性は、自由たらねばならない。それは何をおいても、自らで自らを律するできる人物のことである。

「自由に対立するもの、それの反対の極にあるものは、自然の決定論でもなく、何らかの万能権力の意志でもなく、奴隷状態――しかも自己による――自己の奴隷状態なのである。」

 以上が古代ギリシャにおける性道徳だった。奴隷を軽蔑し、自由人たることに価値を置いたギリシャ人は、自己統御の性道徳を奉じていたのだ。


8.若者のアンチノミー

 さて、しかしここに、若者の二律背反(アンチノミー)と呼ばれるべき問題が発生する。

「若者はそれ固有の魅力ゆえに大人の餌食となり、大人は悪評も招かず問題も生じずにその餌食を追い求めるとしても、しかし忘れてならないのは、この若者は将来、一人前の男となって権力をふるい要職につかなければならないだろうし、もはや明らかに快楽の客体ではありえない、という点である。」

 周知のように、古代ギリシャでは少年愛が一般的だった。成人男性が若い男子を愛することは、広く行われていたことだった。

 しかしこの場合、若者は男性でありながら受動的存在として扱われてしまう。が、受動的たることは性道徳に反することである。これをどう考えればよいか。フーコーは言う。

「そこから生じるのが、若者愛にかんするギリシャ人の省察のなかで、きわめて明らかに目立つ次の傾向である。すなわち、どのようにして、この交渉をいっそう広範な一つの総体のなかに溶けこませて、交渉が別種の交渉関係に変わるようにするか、である。つまり、肉体交渉がもはや重要性をもたず、二人の当事者が同じ感情と同じ幸福をわかちあうことができる、そうした安定した交渉関係に変わるようにするか、である。」

 要するに、ギリシャ人は若者愛を能動–受動の性関係ではなく、いわば人間関係として取り扱ったのだ。



9.真理

 フーコーによれば、ここに、プラトンに代表される古代ギリシャ哲学の真理観を読み解く鍵がある。

 恋する者と恋される者は、単に肉体で結ばれ合うのではなく、そのことによって真理へと到達すると考えるのだ。

「『饗宴』の有名な言い廻しを用いるなら、ある美しい肉体から、いくつもの美しい肉体へ、さらには、これらの美しい肉体から魂へ、ついで、『人間の営み』や『行為の掟』や『もろもろの知識』のなかにある美しいものへ、最後には『広大な領域となった美しさ』を眺めるにいたるまで、これらの動きは連続している。」
「プラトンにとって、真の恋を本質的に特徴づけるのは、肉体の排除ではない。というのは、真の恋は客体の外観を通しての、真理との関係だからである。」

 個別的な「美」から「美」のイデアへ。そうして真理へ。これがプラトンイデア論の要諦なのだ。

 欲望から真理へ。この運動によって、若者の二律背反問題も解決されることになる。大切なことは、能動–受動の性関係ではなく真理への到達なのだ。

 以上、古代ギリシャの性道徳が明らかになった。それは自由人としての自己統御真理への接近にある。


9.第3巻『自己への配慮』の主題:古代ローマの性道徳

 続く最終巻で、フーコーは古代ローマの性道徳へと主題を展開する。

 まず彼は次のように言う。

 ローマに見られるものは「《自己の陶冶》とでも名づけてよい事態の進展であって、その陶冶においてこそ、自己の自己への関係は強化され、高い評価が与えられたのである。」それは、「『自分自身に気をくばる』べしとの原則によって圧倒的につらぬかれている」

 この「自己への配慮」の道徳は、特に結婚関係に大きな影響を及ぼした。

 古代ギリシャでは徹底的に男性優位だった性道徳が、ローマ時代にはある程度の平等性を帯びるようになったのだ。

「結婚はもはや、家庭経営における役割の補完性を定める《婚姻形式》として考えられているだけではなく、さらに、しかもとりわけ、《夫婦の絆》として、男と女の個人的関係として考えられているのだ」

 そしてかつての古代ギリシャ的エロス論も、異なった様相を帯び始めることになる。

 純潔性が重視されるようになるのだ。

「この〈エロス論〉が組立てられるのは、均衡のとれた相互的な男女関係をめぐってであり、純潔性に与えられる高度の価値とか、純潔性が成就する方途が見出される完璧な結婚とかをめぐってである。」

 こうして、ヘレニズム–ローマの性道徳の本質が、「自己への配慮」にあったことが明らかにされた。

 ちなみに、フーコーはここに、後のキリスト教道徳の予兆を見ているわけでは必ずしもない。彼は次のように言っている。

「後代の道徳(キリスト教道徳――引用者)は、自己との関連にかんする別種の様式を定めるだろう。すなわち、〔人間の〕有限性や失墜堕落や悪を出発点とした倫理的実質の何らかの特徴づけであり、ある一般的な法、同時に何らかの人格神の意志でもある一般的な法への、服従という形式での隷属であり、心の解読ならびに浄化本位の欲望解釈学をともなうある型の自己訓練であり、自己放棄を目差すある様式の倫理的完成である。」


(苫野一徳)



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