マルクス『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説』

はじめに

 マルクス20代中頃の作品。

 その読ませる文章といい、『資本論』に結実する社会問題に対する鋭い洞察といい、若きマルクスがすでに天才であったことが本書からうかがえる。

 人間が人間として真に解放されるとはどういうことか。

 そしてそれはどのように可能か。

 生涯をかけてこの問いに挑んだマルクスの、珠玉の小作品である。


1.ブルーノ・バウアー『ユダヤ人問題』批判

 マルクスの生涯をかけたテーマは、人間が人間として真に解放されるとはどういうことか、そしてそれはどのように可能か、ということであったといっていいだろう。

 本書においても、若きマルクスのこの問題との格闘が克明に描かれている。

 そのためにマルクスがまず批判するのが、バウアー『ユダヤ人問題』だ。

 バウアーは言う。

「ユダヤ人とキリスト教徒とのあいだの対立のもっとも頑固な形態は、宗教上の対立である。〔中略〕宗教上の対立は不可能になるか?宗教を揚棄することによってである。」

 しかしマルクスは言う。

「この点に、ユダヤ人問題の一面的なとらえ方があらわれている。」

 と。

「誰が解放するべきなのか?誰が解放されるべきなのか?これだけを究明するのでは、けっして十分ではなかったのだ。批判がとりあつかうべきものが、もう一つあった。それはこう問わねばならなかったのだ。どのような種類の解放が肝要なのだろうか?」


 出だしから非常に力強い文章が続く。文筆家としてのマルクスの早熟な天才にも、驚くべきものがある。

 単に宗教を棄却せよ、というのでは、それは単なるスローガンに過ぎない。宗教を必要とし続けてきた人類を考えると、非現実的でもあるだろう。マルクスはもっと、現実的な道を探ろうとする。



2.天上の生活と地上の生活

「政治的国家が真に成熟をとげたところでは、人間は、ただたんに思想や意識においてばかりでなく、現実において、生活において、天上と地上との二重の生活を営む。天上の生活とは政治的共同体における生活であって、そのなかで人間は自分を共同的存在と考えている。地上の生活とは市民社会における生活であって、そのなかでは人間は私人として活動し、他の人間を手段とみなし、自分自身をも手段にまでおとしめ、疎遠な諸力の遊び道具となっている。」

 天上の生活地上の生活とは、なかなかにうまい言い方だ。

 マルクスはこれを、シトワイアンブルジョワとも言い換える。

 成熟した国家において、われわれは二重の生活を送っている。
 
 対等な存在、つまり公民としての生活と、利己的に自己の利益を追求する、市民としての生活だ。

 政治的国家において、私たちひとりひとりは、対等な権利をもった公的存在として承認されている。

 しかしその一方で、私たちは、他者の権利を侵害しない限り、自分たちのやりたいことをやってよいとされている。

 このような政治的国家においては、宗教は捨て去られるべきものではなく、市民としての生活においてそれぞれに信仰されればよいものだ、とマルクスは言うのだ。

「人間は宗教から解放されたのではなく、宗教の自由を得たのである。」



3.真の人間解放

 したがってマルクスの洞察は、われわれが真に人間らしく生きられるようになるためには、そのように獲得した市民としての自由を享受しつつも、この自由をしっかり保障できる、公民としての生活を確保することにある。他者をかえりみない勝手気ままな自由は、結局放埒な欲望の戦いになってしまうからだ。

「現実の個体的な人間が、抽象的な公民を自分のなかに取り戻し、個体的な人間でありながら、その経験的生活、その個人的労働、その個人的諸関係のなかで、類的存在となったとき、つまり人間が彼の『固有の力』〔forces propress〕を社会的な力として認識し組織し、したがって社会的な力をもはや政治的な力というかたちで自分から分離しないとき、そのときはじめて、人間的解放は完遂されたことになるのである。」



4.ヘーゲル法哲学批判序説

 続いてマルクスは、ヘーゲル『法の哲学』を取り上げ批判する。とは言ってもこの『序説』では、それほど直接的にヘーゲルについて論じられてはいない。

 ヘーゲルに結実したドイツ政治哲学は、他の近代諸国を導く理念を提示し得たすぐれたものだった。しかしそれは、いまだ現実を十分には捉えられていなかったがゆえに、今日的問題に対処しきれていない。そうマルクスは批判する。


 特にドイツは、近代革命における後進国だった。

 当時、イギリスやフランスでは、行き過ぎた独占的所有を、政治的にコントロールしようという課題が浮かび上がっていた。しかしドイツでは、いまだ、公なものに対して私的な富を守り増やそうということが、社会的な課題だった。

「問題は、フランスとイギリスでは行きつくところまで行った独占を揚棄することにあるのに、ドイツでは独占が行きつくところまで行くことにある。あちらでは解決が問題であり、こちらではやっと衝突が問題となっている。」

 どのような社会を構想すべきか。哲学は現実をしっかり捉えて、回答しなければならない。

 ドイツ哲学はこれまで、徹底的な思弁によってのみ、現実的な政治変革について語ってきた。

 しかしわれわれは今後、これを実現していかなければならないのだ。


「そこで問題になるのは、ドイツは原理と同じ水準まで高められた〔à la hauteur des principes〕実践に到達することができるかということ、すなわち、ドイツをたんに近代諸国民の公式の水準に高めるだけでなく、これら諸国民の次の未来であるような人間的な高さまでも引きあげるような、そういう革命に到達することができるか、ということである。」

「どのようにしてドイツは、命がけの飛躍〔salto mortale〕によって自分固有の障壁〔拘束〕を乗り越えるだけでなく、同時に近代的諸国民の障壁をも、すなわちドイツが実際には自分の現実的障壁からの解放として感じ獲得しようと努めざるをえない障壁をも、乗り越えることができるだろうか?」

 これがマルクスの、生涯をかけた問いとなる。

(苫野一徳)



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