フッサール『経験と判断』

はじめに

Edmund Husserl 1910s.jpg 述語判断の起源を、発生的現象学の方法によって明らかにすることを試みた作品。

 「◯◯は〜である。」と私たちが判断するのは、いったいどのような仕方においてであるか。フッサールは、彼一流のとにかくひたすら細かい記述で論じていく。

 あらゆる論理学に先立つ、論理学それ自体の発生を明らかにすることを目的とした作品だ。

 フッサールを愛してやまない私だが、この本にはほんとうに難渋した。

 一言でいって、とにかくおもしろくない(苦笑)。

 私たちのあらゆる述語判断がどのように発生するのかをいちいち論じて、その類型をまたいちいち論じる。

 細かすぎて、ほとんど何の役にも立たないくらいのところまで記述する。

 鉛筆を研ぎすますためひたすらナイフで削り続けたら、いつのまにか鉛筆がなくなってしまった、という有名なエピソードをもつフッサール。

 本書も、私たちの判断形式を細かく細かく分析し続ける、そんなスタイルで書かれている。

 とは言え、ポイントさえしっかり押さえることができれば、伝統的な論理学のパラダイムを覆す、画期的な論考であることもまた理解されるだろう。


1.本書の課題

「本書は起源の問題を研究しようとするものである。つまり、述語判断の起源をあきらかにすることによって、論理学一般の発生論に寄与しようとするものである。〔中略〕つまり、述語判断の起源を追及する途上で述語判断の本質をあきらかにすること、これが課題である。」

 私たちはどのようにして、◯◯は〜である、と判断しているのか。

 そしてそのような判断の本質は何か。

 この問いを明らかにすることが、本書の課題だ。


2.認識

 判断は、まず私たちが「◯◯は〜である」と認識するところから始まる。

 ではこの認識とは何か。フッサールは言う。

「ところで認識というのは、なにを認識するのか。まったく一般的にいえば、存在するものの、存在者の認識である。認識への努力が存在者にむかうものであり、存在者とはなにか、それはどのように存在するかを判断しつつ表現する努力であるとすれば、存在者はすでにまえもってあたえられていなければならない。」

 認識とは、まずもって存在者、つまり、目の前のパソコンとか、机とか、グラスとか、そういった存在者一般がどのように存在するかを知ろうとすることだ。


3.明証性

「対象的明証性こそ根源的な明証性であり、いいかえれば、明証的な述語判断を可能にする前提的な明証性である。だから、明確なかたちをとった発言命題を認識の成果とみなし、認識の表現であるとするのをゆるすものは、発言命題自身のうちに存在するとかんがえることはできない。」

 何かを判断するとき、わたしたちは、それがほんとうにそうであるか、という明証性を問題とせざるを得ない。

 フッサールは、最も確かな明証性とは何か、まず考える。

 それは対象的明証性だ。

 目の前のパソコンが「見えてしまう」ということ。このことはどうしても疑えない。これが対象的明証性の意味だ。

 しかし、「目の前にあるのはパソコンである」という判断をしたとき、それは十全な明証性を欠くことになる。

 パソコンは偽物かも知れないし、実は今、私は夢を見ているかも知れないからだ。

 だから、発言命題のうちに明証性を求めてはいけない、とフッサールは言うわけだ。

 この対象的明証性それ自体を問うこと。これこそが、フッサールの発生的論理学の独自性にほかならない。

「だとすると明証性の問題圏には二段階の問が生じてくることになる。ひとつはまえもってあたえられる対象自身の明証性、ないし、そのあたえられかたの条件にかんするものであり、もうひとつは対象の明証性にもとづいて完成される明証的な述語判断にかんするものである。形式論理学は対象のまえもってのあたえられかたのちがいを問わない。」

 伝統的形式論理学は、対象的明証性について考えることがなかった。そうフッサールは言う。それは、十全ではあり得ない、発言命題の明証性を問うてきたのだ。

 「目の前にあるのはパソコンである。」という命題は、真か偽か

 そのような問いばかりを問うてきた。

 しかしこの問いにはほとんど意味がない。フッサールはそのように考える。判断は命題の真偽ではなく、それ以前の対象的明証性の次元からなされるのだ。

「判断がうみだされる根源にさかのぼって、判断の発生を現象学的に探究してみると、名目判断は認識判断の志向的変様であることがあきらかになる」わけだ。

「かくて対象的明証性の性格への問は、個物の明証的なあたえられかたへの問である。」

 それぞれの対象が、いったいどのようにわれわれに与えられるのか。

 「◯◯は〜である。」という述語判断を問題にする前に、われわれはこの直接的な与えられ方を分析する必要がある。



4.端的な確信

「どんな認識活動でも、それがはじまるまえにすでにつねに対象がわれわれにたいして存在し、端的な確信のうちにあたえられている。どんな認識行為もそれを前提としてはじめて開始される。」

 目の前のパソコンが「見えてしまう」ということ。このことが端的な確信だ。

 われわれの認識は、常にこのような端的な確信から出発する。



5.地平

 われわれは、あらゆる認識をある地平のもとに行っている。

 目の前のパソコンは、その裏側という地平をもつのであり、その向こうには窓があって、さらにその向こうには摩天楼が聳えている。

 目の前のパソコンは、常にそうした地平の中に置き入れられている。

 したがって、パソコンは常に絶対的に知られることはない。それはいつも、何らかの地平において相対的に現象する。

「一切の経験可能な個別的実在の地平である世界の基本構造は、既知と未知のからみあった構造であり、そこには徹底した相対性、およぴ、無規定的普遍性と規定された特殊性との同様に徹底した相対的区別がつきまとっている。」



6.経験

「個々の対象が明証的にまえもって受動的にあたえられるという意味での経験概念は、具体的な意味でのあらゆる経験の根本構造をしめしているというかぎりで、特権的な位置をしめる。」

 フッサールは「経験」を、このように非常に広義のものとして概念化する。

 それはわれわれの認識行為の一切を含む概念だ。

 フッサールはさらに、これを端的な経験基礎づけられた経験の2つに分類する。

「経験を問題とする場合には、端的な経験と基礎づけられた経験とを区別しなければならない。受動的ドクサのなかに全体としてつねにすでにまえもってあたえられ、一切の個別的判断の信念基盤を提供する世界は、端的な経験のうちに端的感性的にとらえうる基体としてまずあたえられる。」

 先ほど端的な確信という概念が出たが、端的な経験もそれとほぼ同じ意味をもっている。

 とにかく「見えてしまう」ということ。これが端的な経験だ。

 それに対して、それが「◯◯のように見えている」という表現が加わったとき、フッサールはこれを基礎づけられた経験と呼ぶ。端的な経験に基礎づけられた上で、この表現は可能になるからだ。

 述語判断の起源を問う本書は、当然まずこの端的な経験を問題にしなければならない。

「現実に最終的かつ根源的な前述語判断の明証性にたっするためには、このような基礎づけられた経験からもっとも端的な経験へとかえっていかねばならないし、そのためにはすべての表現を排除しなければならない。」


7.知覚

 以上のようにして、フッサールは端的な経験がどのようになされるかを分析するのだが、その際彼は、知覚経験を最も重要なものとして取り上げる。

「知覚をとりあげるというのは、事態が単純化されるという利点ももっている。こうした分析では単純なものからはじめて、しかるのちに複雑なものにうつっていくというのが、たしかに方法上の鉄則なのだ。」

 目の前のパソコンが「見えてしまう」ということ。これが最も端的な経験だから、この知覚経験を分析していこう。そうフッサールは言うわけだ。

 われわれはまずパソコンが「見えてしまう」ところから知覚を始めるが、そこから、これはその下の机と色が「同じ」だとか、隣のテレビとは形が「同じ」だとか、そのように判断する。

 知覚の経験において、われわれは常に、そのような合同類縁性異質性を見て取ってしまうのだ。

 そしてこのような見て取りは、われわれの傾向・注意関心に相関的に行われる。

 そしてこのような傾向や関心は、常に、認識における何らかの充実をめがける。

「傾向とは対象のつねにあらたなあたえられかたをもとめてたんに盲目的にすすんでいくものではなく、期待志向、未来志向的期待をともなってすすむもので、この期待は、知覚的観察のさらなる進行のうちにあたえられる対象の側面、たとえば、これまでみえていなかった背面にかんする期待である。」

 パソコンの裏側はどうなっているのだろう、そのさらに向こうはどうなっているのだろう、と、われわれの傾向は何らかの期待志向のもとに探究してしまう。

 そして言う。このゆえに、われわれの否定判断は、まさにこの前述語的判断の段階において生じるのだと。

 フッサールはこれを、マネキンの例を使って説明している。

「たとえば、ショーウィンドーのなかにひとつのかたちをみとめて、最初はそれをほんものの人間、たとえばそこではたらいている従業員だとおもい、つぎには、着衣の人形がたっているだけではないかともおもうといったことがある。」

 期待が否定されたのだ。

「したがってあきらかに、否定は述語判断にはじめてあらわれるものではなく、その原形はすでに受容的経験という前述語領域のうちにあらわれている。」



8.解明

 さて、こうして知覚のあらゆる構造を分析した後(上記の何百倍も細かく分析している)、フッサールは解明という重要な概念を提示する。

「対象をSと名づけ、それの内的な規定をα、β、……であらわすとすると、βへの関心からひきおこされた過程は、把握S、把握α、把握β、…‥と、それぞれの把握がたがいに無関係で、主題だけがつぎつぎにかわるといった単純な系列をなすわけではない。〔中略〕むしろ、把握Sから把握α、β、……へとうつる個別行為の全過程で、われわれはSをしるのである。」

 この過程を、解明という。目の前のパソコンは、黒くて、何か明るくて、角張っていて・・・と、われわれはわれわれの関心に応じて対象Sを解明していく。

 この解明作用は、やがて習慣化されていく。われわれは普段、わざわざ目の前のパソコンを解明する必要がない。

「解明がすすむにつれて、以前には無規定な対象、つまり、あいまいで地平的にさきどりされ、予測的に規定された把握対象のもとに、習慣的な知識が沈澱してくる。」



9.述語的認識行為

 以上のような過程を経て、フッサールはようやく述語判断について論じ始める。

 簡潔に言うと、それは以上の過程を自覚的に行うことだ。

「述語的認識行為はひとつの行動と名づけられたが、そう命名できるのは、行動の一般構造がそこにもみいだされるからである。」
「行動としての認識は、対象の真の存在や真のありかた、当該の事象のはっきりした特徴の所有をめざす目標追求活動である。」

 そしてフッサールは、これまでに論じてきた前述語的判断の過程が、どのように述語判断に結びついていくかをこれまたこれでもかというほど細かく記述していく。


10.本質洞視

 最後に、本書で最も「使えそう」な、本書最後の箇所について書いておこう。

 それが、現象学的本質観取について述べた次の点だ(長谷川宏訳では本質洞視となっている)。

 これは、さまざまな物事の「本質」は何であるかを洞察する方法だ。

 もちろん、絶対的な「本質」などはない。しかしある物事についての、広範な共通了解の得られる最も「本質」的な点をいい当てることは可能だ。

 それはどのように洞察可能か。フッサールは言う。

「われわれはある事実を、純粋な空想のなかで変形するための原像とみなすのだ。そのさい、変形をつうじてつぎつぎとあたらしい類似の像が模像ないし空想像として獲得されるが、それらは全体として具体的に原像に類似している。」

 たとえば「友情」の本質とは何か、と考えるとき、どのような関係が友情と言い得てどのような関係が友情と言い得ないか、自由な想像変容を行う必要がある。そうフッサールはいうわけだ。

 この想像変容によっても変化し得ない原像。これを、とりあえずは一般的本質といっていい。

「それは自由な変更の行使のなかで、変項の差異とは無関係に、絶対的に同一の内容として、つまり、一切の変項をかさねあわす不変の内容として、一般的本質としてうかびあがってくる。」
「この一般本質は形相であり、プラトン的な意味でのイデアであるが、ただし、あらゆる形而上学的解釈を排して純粋にとらえられたイデア、つまり、まさに変更作用の道に生じてくるイデア直観のなかで直接直覚的にあたえられるようなイデアである。」

 「絶対的」という言葉を多用するから、フッサールは誤解される。

 しかしちゃんと彼は、本質とは形而上学的解釈を排したものだと明言している。

 フッサール自身が現象学的本質観取の方法について論じた、数少ない箇所といっていいだろう。

 しかしこの本質観取についての考察は、少し片手落ちの感も否めない。

 単なる想像変容だけが方法であったなら、「本質」などなんとでもいえてしまうだろうからだ。

 私の考えでは、どのような目的のために「本質」を捉えたいのか、という、目的相関的観点が本質観取の際重要になる。

 このことについては、またどこかで改めて論じたいと思う。


(苫野一徳)


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