ジェイムズ『プラグマティズム』

はじめに

 パースの提唱したプラグマティズムを独自に継承し、アメリカをはじめ世界へとこの言葉を知らしめたウィリアム・ジェイムズ。

 小説家ヘンリー・ジェイムズの兄としても知られている。

 彼の哲学する姿は、とても真摯でまたバランス感覚に富んでいる。

 プラグマティズムは、単なる実用主義だといってばかにされることが多かった(いまもたまにされている)。しかしジェイムズは、難解な言葉を弄し深遠な世界を語ることこそが哲学だとする人たちに、ただ一言、「いったいそれにどんな意味があるのか」と言ってのけることのできた人だった。

 真理とは、「それを信じたほうがわれわれにとってよりよいもの」のことだ。絶対普遍の真理なんて、考える必要はない。ジェイムズはそう言った。プラグマティストは、徹底した現実主義者なのだ。そしてその考えは、十分鍛え抜かれた原理になっている。

 ジェイムズは、どんな哲学を好むかはその人の気質によるところが大きい、と指摘している。

 哲学とは永遠の真理を探究するものだ、と思っていた当時の多くの人たちからしてみれば、気質で哲学を語るなんてなんと「不敬」なことだろう、とすら感じられたことだろう。

 しかしまったくその通りなのだ。自分の思想や考えを反省してみると、私たちは、なぜ自分がこのような考えを好むのか、きっとかなりの程度了解することができるはずだ。

 デューイのページでも書いたが、私はプラグマティズムは、あともう一歩甘いところがあると考えている。


 絶対なる善や真理があるのではなく、あらゆる価値は、「うまくいくかどうか」ではかられる。そうプラグマティズムは言う。

 その通りだ。しかしわれわれに必要なのは、いったいどのような意味において「うまくいく」といえるのか、という、その「うまくいく」の本質を問い明らかにする思考の方法だ。私の考えでは、プラグマティズムには残念ながらその徹底した思考が欠けている。

 と、そうは言っても、本書はプラグマティズムの原理を十分に論じた、哲学史に残る名著だと私は思う。


1.哲学の歴史は気質の衝突の歴史

「哲学の歴史はその大部分が人間の気質の衝突ともいうべきものの歴史である。このような取り扱い方をすると、わが同僚のうちには不見識だと思う者があるかもしれないが、私はこの衝突を重要なものと見なし、これによって哲学者たち相互の著しい差異を説明しようと思うのである。」


 ジェイムズによると、哲学の歴史は合理論経験論の対立にある。そしてそれぞれどちらの立場をとるかは、多分にその人の気質によっている。

 合理論は、世界が一つのある永遠の法則のもとに統一されていると考える。

 ジェイムズはこれを軟らかい心と呼ぶ。
合理論は、「あこがれ」を抱きやすい人に支持されやすいからだろう。

 絶対なる永遠の法則を求めること。それは、宗教的で、ロマン主義的で、また一元論的だ。

 一方の経験論は、あくまでも事実を尊重する。

 ジェイムズはこれを硬い心と呼ぶ。

 経験論者は、経験を超えた絶対者を認めることなく、あくまでも冷静に事実に向き合うからだ。

 確かに私たちの考え方は、多分に気質に依存している。

 私の感じでは、その気質のおおもとにあるのが、自己価値評価だろうと思う。この観点から、どのようなタイプの人がどのような思想を抱きやすいか、ある程度言い当てることができる。

 基本的に、自己価値も一定程度高く、そして世界にも一定程度親和的な人というのは、プラグマティックにものを考えやすい。バランスのとれた人は、たいてい現実的にものを考える。

 しかし、自己価値はとても高いのに、人から認められないとかうまく結果を残せないとかいう人は、ルサンチマンから極端な哲学に入り込みやすい傾向がある。

 その場合、世界にある程度親和的な人なら、ロマン主義者になりやすい。どこかに永遠とか絶対の世界があって、自分もそれに到達したいというような。つまり「あこがれ」を持ちやすい。ロマン主義者は、「あこがれ」と自分を一体化することで、自己価値を担保しようとする。

 世界にうらみを抱くタイプの人だと、懐疑主義者になりやすい。どうせあいつもこいつも確かなことは言えないんだ、と全員を否定することで、逆説的に自己価値を担保しようとする。

 こんな具合に、人がどんな哲学思想に傾倒するかは、多分にその人の気質によっている。ジェイムズは人間をよく知っている。


2.哲学的対立を解消するためのプラグマティズム

「プラグマティックな方法は元来、これなくしてはいつはてるとも知れないであろう形而上学上の論争を解決する一つの方法なのである。世界は一であるか多であるか?――宿命的なものであるか自由なものであるか?――物質的か精神的か?――これらはどちらも世界に当て嵌るかもしれぬしまた当て嵌らぬかもしれぬ観念であって、かかる観念に関する論争は果てることがない。」

 プラグマティズムは、「世界はそもそもどうなっているか」という、答えの出ない形而上学はもうやめよという。絶対的「真理」などわれわれには分からない。だから問うべきは、「それを信じるほうがわれわれにとってよりよいもの」は何か、である。それがプラグマティズムの「真理」観だ。

 その意味では、宗教も神も、それが人々の間で対立を起こさない限りにおいて、人に慰めや希望を与えてくれるのであれば、「真理」と呼んでもいい。そうジェイムズは言う。

 ジェイムズが言う通り、プラグマティズムはとても穏健な思想なのだ。合理論と経験論の対立を、どちらも実用的価値があれば「よい」といって、問題の問い方の「アクセント」を変えるのだ。彼はこう言っている。

「認識論的自我とか、神とか、因果性の原理とか、設計とか、自由意志とか、これらのものを何か事実を超絶した至尊なものとしてそれ自身であると考え、そのような原理に立ってうしろを見返すものでなく、いかにプラグマティズムはアクセントの置き所をかえて、前方に目を向けて事実そのものを見究めようとするものであるかがわかってもらえたと思う。われわれすべてにとって真に死活の問題は、この世界がどうなって行くか?人生はつまりどうなるべきものか?という問題である。」


3.プラグマティズムとヒューマニズム

 ジェイムズの考えの基本的構えは、「事実それ自体」といったものはなく、それはいつも観点や関心に応じて意味を変える、というものだ。


「いったいわれわれはひとつの事物を何と呼べばよいのであろうか。この呼び方はまるで勝手気儘なものであるように思われる。なぜかというに、われわれはちょうど星座を切り取るのと同じように、あらゆるものをわれわれ人間の目的にかなうように切り取っているのだからである。」

「真理とは実在であるのではなくて実在についてのわれわれの信念なのであるから、それは人間的な諸要素を含んでいるであろう。」

「われわれが実在について語ることは、このようにして、われわれが実在を投げ込むパースペクティヴのいかんに依存している。」

 事実とか実在とかいわれるものは、常にすでに、人間的なパースペクティヴによって切り取られたものである。その意味で、プラグマティズムはヒューマニズム的要素を持っている。そうジェイムズは主張する。


4.新しい理論がたどる道

 新しい理論であるプラグマティズムは、まだまだ人びとから受け入れられていない。本書(もともとは講演)においてジェイムズはそのように言う。

 そもそも新しい理論は、多くの場合次のような道をたどるものなのだ。

「ご存じのとおり、新しい理論があらわれると、まず、不合理だといって攻撃される。次に、それは真理だと認められるが、わかり切ったことで取るに足らないことだといわれる。最後に、それはきわめて重要なものになって、初めそれに反対した人々も、その理論は自分たちが発見したのだといい張るまでになってくる。」

 私は、「攻撃される」前に「無視される」というのを付け足してもいいのではないかと考えている。

 ともかく、新しい哲学を打ち立てていくのはそう生易しいことではない。

 しかし、人生をかけてやり遂げる価値はある。

 個人的には、本書はそんな気持ちを新たにさせてくれる良書でもある。

(苫野一徳)



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