ルソー『社会契約論』

はじめに

 近代社会の基本を設計した、画期的な書物。フランス革命に大きな影響を与えたものとしても知られている。

 しかしこの本は、その後現代にいたるまで、賛否両論の大激論を生むことになった。

 哲学史上、ルソーほど極端に愛されまた嫌われた人はいないし、この本ほど、絶賛されまた罵倒された本もない。

 ある人は、本書を民主主義の宣言の書と言って賞讃する。またある人は、本書を全体主義の理論書と言って批判する。

 この真逆の評価は、いったいどういうことなのか。

 ルソーというこの人間力に溢れた天才の文章は、確かに私たちの魂に何かを訴えてくるような力がある。

 読み手によってその受け取り方が変わってくるのも、そうした魔力のゆえなのかも知れない。


1.本書の目的

「人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。どうしてこの変化が生じたのか?わたしは知らない。何がそれを正当なものとしうるか?わたしはこの問題は解きうると信じる。」

 有名な冒頭だ。

 自由であるはずの人間が、なぜ社会においてはくびきにつながれてしまうのか。

 どのような社会であれば、われわれはこれを正当といえるだろうか。

 ルソーはこうして、社会の「原理」論を開始する。


2.社会契約

「人間の最初のおきては、自己保存をはかることであり、その第一の配慮は自分自身にたいする配慮である。」

 ルソーはまず、人間は自己保存をはかるものだという事実から考察を開始する。このおきては誰にでもそなわっている。だからこのおきてが満たされていないと、社会は「正当」とは言えない。

 次にルソーは、最強者の権力について考察する。

 「最強者」は、残りすべての人間を支配しようと欲する。しかしいかに最強者といえども、他人をすべて自分に服従させることなど不可能だ。

 こうして、残るのは約束だけになる。「自己保存」を可能にするためには、相互に互いの「自己保存」を侵害しないという「約束」をしなければならない。


3.一般意志

「われわれの各々は、身体とすべての力を共同のものとして一般意志の最高の指導の下におく。」

 一般意志とは、簡潔にいえば市民全員の合意のことだ

 各人は、それぞれに特殊意志をもつ。だから互いに争うことになる。

 しかしわれわれの社会は、どの「特殊意志」が正しいかと問うのではなく、それが「一般意志」に適合しているか、つまり合意可能なものかと問わなければならない。

 各人の「特殊意志」の対立を調停するために、その「特殊意志」が市民全員の合意を得られるかどうかという観点からはかるわけだ。

 したがってルソーは次のように言う。

「一般意志は、何らかの個人的な特定の対象に向かうときには、その本来の正しさを失ってしまう。そこで意志を一般的なものとするのは、投票の数よりもむしろ、投票を一致させる共通の利害であることが理解されなければならない。」

 社会権力は、ある特定の人の利害を代表するものであってはならない。

 それは、市民全員の意志、すなわち「一般意志」を代表している時にのみ「正当」ということができるものである。

 だから、多数決も必ずしも「一般意志」を代表しているとは言えない。

 むしろ、どうすれば互いの共通利害を取り出せるかを考えるべきなのだ。

 後にプルードンが、ルソーは多数決を説いたとして批判しているが、見当違いな批判だと私は思う(プルードン『19世紀における革命の一般理念』のページ参照)。

 こうして、「社会」の正当性、あるいは各人の「自己保存」を保障する「権力」の正当性の答えは、「一般意志」であるということになる。

「統治者の支配的な意志は、一般意志、あるいは法に他ならず、またそうでなければならない。」

 ルソーは続けて、民主政、貴族政、君主政のそれぞれを検討したり、代議士や投票のあり方についてなど詳細に考察しているが、この細々とした議論については、現代ではそれほど重要ではないと思う。

 今日なお色あせない、いや、むしろ近現代社会の「原理」として生き続ける思想は、何よりも一般意志の原理だ。

 われわれの社会には、超越的で絶対的な「よい」はもはや存在しない。

 社会(権力)が「正当」といいうるのは、ただ「一般意志」を代表している時にのみである。

 ちなみにこの「一般意志」の概念は、アーレントハーバーマスなどによって、「全体主義」の概念とほぼ同義であるとして批判されている(アーレント『革命について』ハーバーマス『公共性の構造転換』のページ等参照)。

 しかしこれは、かなり偏った批判であるというほかない。

 ルソーが「一般意志」の概念において主張したことは、すべての市民の意志を統一しなければならないなどということでは決してない。

 「一般意志」の概念が意味しているのは、社会(法・権力)をわれわれが「正当」といいうるのは、それがすべての人の意志を十分代表し得ている時のみである、という、社会権力の「正当性」の原理なのである。

 
 それは、絶対的に達成することはほとんど不可能なことであるだろう。しかしわれわれは、この「理念」による以外に、社会(法・権力)の正当性を吟味検証することはできないはずである。
 
(苫野一徳)




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