フロム『自由からの逃走』

はじめに

愛は技術 エーリヒ・フロム イソザキコム » Blog Archive » 愛は技術 エーリヒ・フロム 私たちは自由になったのに、なぜ自らの自由を全体主義に明け渡し、服従することを選んでしまったのか。

 自由という孤独の不安に耐えられなくなった、現代の私たち。

 フロムの透徹した人間洞察が光る名著だ。

 服従をではなく、自らの自由をより十全に実質化する方途はないのか。フロムの出した答えは、現代なお十二分な説得力を持っている。


1.本書の目的=なぜ人は自由からの逃走を欲するのか?

 人類の歴史とは、自由を求め、そしてまた、徐々にその自由を獲得していく歴史であった。
 しかし今日、われわれは、獲得したはずの自由からの逃走を欲するようになっている。フロムはまずそのように本書を書き起こす。

 その象徴が、ファシズムの勃興である。われわれは自らの意志で、われわれの自由を抑圧するファシズムの勃興を願ったのだ。

 それはいったい、どのような社会心理的条件のもとに起こった現象なのだろうか。

 これが本書におけるフロムの問題設定である。

「ファッシズムを勃興させた経済的社会的条件の問題のほかに、理解を必要とする人間的な問題を理解する必要がある。近代人の性格構造における、これらのダイナミックな要素を分析することが本書の目的である。」


2.社会心理学

 そのためにフロムがとる手法が、社会心理学的分析である。

 フロムはフロイト精神分析の手法を継承しながら、フロイトには諸個人と社会とのダイナミックな関係についての観点が欠けていたと主張する。フロイトはあまりに個人内部の葛藤に重きを置きすぎている。そうフロムは言う訳だ。

「本書でなされる分析は、フロイトの見方とは反対に、つぎのような仮定に立っている。すなわち、心理学で重要なのは、個人の外界にたいする特殊な関係の問題であって、さまざまの本能的な要求それ自体の満足や葛藤の問題ではないということ、さらにまた個人と社会との関係は、静的なものではないということである。」


3.「〜の自由」と「〜への自由」

 フロムは続いて、個人がどのように自由を獲得していくのか、そのプロセスを発生論的に解き明かす。

 まず、私たちは生まれ落ちた時、たいていの場合かならず第一次的絆に結ばれている。

「子どもを母親に結びつけている絆、未開社会の成員をその氏族や自然に結びつけている絆、あるいは中世の人間を教会やその社会的階級に結びつけている絆は、この第一次的絆にほかならない。」

 それは私たちを守ってくれる絆であると同時に、私たちを束縛する絆である。
 成長するとは、この第一次的絆から徐々に解き放たれていくということである。

 ここには2つの意味がある。フロムはそのように言う。

 1つは、私たちが肉体的にも精神的にも、少しずつ強くなっていくということ。そしてもう1つは、しかしその一方で、私たちが孤独になっていくということである。

 そこでフロムは次のように言う。

「ここに、個性をなげすてて外界に完全に没入し、孤独と無力の感情を克服しようとする衝動が生まれる。」

 個人が解放されればされるほど、私たちは孤独に耐えられなくなることがある。
 ここにフロムは、なぜ現代においてファシズムが勃興してきたのか、その根本原因を暗示する。

 そしてフロムは、この問題を解消する方についても、すでに答えを暗示している。

「服従が孤独と不安とを回避するただ一つの方法ではない。もう一つ、解きがたい矛盾をさける唯一の生産的な方法がある。すなわち人間や自然にたいする自発的な関係である。それは個性を放棄することなしに、個人を世界に結びつける関係である。この種の関係――そのもっともはっきりしたあらわれは、愛情と生産的な仕事である――は全人格の統一と力強さにもとづいている。」

 自由の孤独に耐えられず、絶対権力に服従しようとしてしまう私たち。しかし私たちには、もう1つの道が残されている。それは、他者(社会)の中にありながら、なおそこで愛情を感じつつ諸個人が十全に自らでありうる社会関係を見出すことである。

 私たちの自由は、単なる「解放」(〜からの自由)であるのでは不十分である。私たちは、自らを自由な存在たらしめるべく、「〜への自由」のあり方を模索する必要がある。

 有名な「〜からの自由」「〜への自由」の区別である。

 ちなみにこの発想は、アーレントが、自由とは単なる解放であってはならず自由の創設を必要とするといったことにも通じている。

 他方、同じく「〜からの自由」(消極的自由)と「〜への自由」(積極的自由)を区別したバーリンは、むしろ「〜への自由」こそが他者の自由を抑圧する全体主義につながる思想であるとして、この種の自由を批判した。

 しかし私としては、バーリンの自由論よりもアーレントやフロムの自由論の方に原理的な説得力があると言いたいと思う(アーレント『革命について』バーリン『自由論』の頁参照)。

 ともあれフロムの次のような洞察は、現代の私たちにとってもなお極めて重要な意味を持っていると私は思う。

「個別化した人間を世界に結びつけるのに、ただ一つ有効な解決方法がある。すなわちすべての人間との積極的な連帯と、愛情や仕事という自発的な行為である。それらは第一次的絆とはちがって、人間を自由な独立した個人として、再び世界に結びつける。」


4.「自由」の歴史的考察

 続いてフロムは、人類史において「自由」がどのように展開してきたかを論じる。

 近代的自由は、中世的な封建制の崩壊と共にあらわになった。フロムはまずそのように言う。

「中世的社会機構が次第に崩壊した結果、近代的な意味の個人が出現した。」

 言うまでもなくこれは常識的な解釈ではあるが、フロムの洞察は次の点にある。

「新しい自由は、かれらに二つのことをもたらしたように思われる。力の増大した感情と、それと同時に孤独と疑惑と懐疑主義との増大、そして――その結果として――不安の感情の増大である。」

 自由を獲得できたことそれ自体は、確かに喜ばしいことだった。
 しかしそれは同時に、それまで自身を拘束してきた社会からの孤絶を意味していた。
 人々はここに、新たな不安、すなわち孤独の不安を知ることになったのである。

 フロムによれば、ルターカルヴァンによる宗教改革は、この時代の不安が具現化したものにほかならない。

「ルッターにみられるような、確実性への強烈な追求は、純粋な信仰の表現ではなく、たえられない懐疑を克服しようとする要求に根ざしている。」

 ルターやカルヴァンに対するフロムの批判は厳しい。両者共に、絶対的な救済を唱えることで、時代の不安感をいわばファシズム的に解消しようとしたというのである。

「この傾向はこんにちでは、ファシストにおいて頂点に達した。かれらは人生の目的は『より高い」権力や指導者や、また民族共同体のために、犠牲になることであると強調している。」

 資本主義の発展は、こうした人々の不安をさらに助長することになった。フロムはそのように続ける。

「人間は巨大な経済的機械の歯車となった――そして資本を多くもった人間は重要な歯車であり、資本をもっていない人間は、無意味な歯車である――しかしその歯車は常に自分の外にある目的に奉仕するものである。」


5.逃避のメカニズム

 こうして現代人は、自らの自由の不安に怯え、そこからの逃走を願うようになった。

 それはどのような道をたどることになるのか。フロムはいう。

「この特殊なメカニズムは、現代社会において、大部分の正常なひとびとのとっている解決方法である。簡単にいえば、個人が自分自身であることをやめるのである。すなわち、かれは文化的な鋳型によってあたえられるパースナリティを、完全に受けいれる。そして他のすべてのひとびととまったく同じような、また他のひとびとがかれに期待するような状態になりきってしまう。」

 自らを自動人形化すること。これが逃避のメカニズムである。フロムはそのように言うのである。


6.民主主義的社会主義

 この問題を、どうすれば解決することができるだろうか。
 そのヒントは、すでに先にも述べられていた。フロムは言う。

「われわれは先に、消極的な自由はそれだけでは個人を孤独にすること、個人と世界との関係は、疎遠な信頼できないものとなること、かれの自我は弱められ、断えずおびやかされることを述べた。自発的な活動は、人間が自我の統一を犠牲にすることなしに、孤独の恐怖を克服する一つの道である。」

 自らが十全に自らとして生きられる、すなわち積極的自由を体現しうる社会。これをフロムは、民主主義的社会主義と呼ぶ。

「これにたいする一つの条件は、少数ではあっても大きな経済力をふるい、その決定によって民衆の運命を左右し、しかもかれらにたいする責任はかえりみないようなひとびとの、かくれた支配力をとりのぞくことである。われわれはこの新しい秩序を民主主義的社会主義と名づけることができる。」

 現代における社会民主主義のことといっていいだろう。自由の不安や孤独から服従へと進むのではなく、自らが十全に自らでありうるような社会。それがフロムのいう民主主義的社会主義である。


7.愛について

 最後に、本書で時折述べられる、フロムの見事なについての洞察を紹介しておこう(愛については、フロム『愛するということ』のページも参照)。

「憎悪は破壊を求めるはげしい欲望であり、愛はある『対象』を肯定しようとする情熱的な欲求である。すなわち愛は『好むこと』ではなくて、その対象の幸福、成長、自由を目指す積極的な追求であり、内面的なつながりである。それは原則として、われわれをも含めたすべての人間やすべての事物に向けられるように準備されている。」

 憎悪は破壊・否定欲望であり、愛は強い肯定のエロスである。

「一人の人間にたいする愛は人間そのものにたいする愛である。人間そのものにたいする愛は、しばしば考えられているように、特定の人間にたいする愛の『あとから』抽象されたものではなく、また特定の『対象』との経験を拡大したものでもない。人間そのものにたいする愛は、もちろん発生的には、具体的な個人との接触によって獲得されるものであるが、それは特定の人間にたいする愛の前提となっている。」

 人間そのものへの愛が、個人的愛に先立っている。

「愛とは、自我を相手のうちに解消するものでもなく、相手を所有してしまうことでもなく、相手を自発的に肯定し、個人的自我の確保のうえに立って、個人を他者と結びつけるような愛である。愛のダイナミックな性質はまさにこの両極性のうちにある。すなわち愛は分離を克服しようとする要求から生まれ、合一を導き――しかも個性は排除されないのである。」

 愛は他者所有ではなく、他者を他者として尊重しつつもなお自らと結びつけるエロスである。

(苫野一徳)


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