フロイト『性理論三篇』

はじめに

 サディズムマゾヒズムフェティシズムといった性目標の倒錯が、誰にでもある普遍的なことであることを指摘しつつ、その理由を、そもそも乳幼児期からわれわれの中に存在する性欲動(リビドー)に見出そうとする本書。

 幼児性愛を指摘し、大きな波紋を呼んだことで有名な本だ。

 フロイトの理論は、彼自ら強調しているように、完全に検証することは不可能な仮説である。

 一切を性欲動に還元しようとする彼の仮説群には、その後様々な批判が寄せられることとなった。

 しかし私としては、フロイトの類い稀な人間洞察力に感銘を受けずにはいられない。特に、それが性的関係であるかどうかはともかくとして、私たちが親子関係から半ば必然的に受けざるを得ない大きな影響関係を、これでもかというほど見事に描き上げたフロイトの理論には、今なお引き継ぐべきものが多くあるように私には思われる。


1.第1篇「性的な逸脱」

 フロイトはまず、性的な逸脱を性対象の倒錯性目標の倒錯とに分ける。
 性対象の逸脱は、同性愛両性愛をさす。
 性目標の逸脱は、性器によるセックスではなく、性器以外を性行為の目標とすることをさす。

 ここでフロイトが考察するのは、主として性目標の倒錯である。

 それはたとえば、サディズムマゾヒズム、またフェティシズムなどに顕著に見られるものである。

 ちなみにフロイトによれば、マゾヒズムとは自分に向けられたサディズムに他ならない。

「多くの場合、マゾヒズムとは自分に向けられたサディズムの延長に他ならないことが確認されている。この場合は、自分が性対象の位置に立つわけである。」

 さて、フロイトは続けて次のように言う。 

「どのように健全な人でも、正常な性目標にはつねに性目標倒錯の要素がそなわっているものである。」

 なぜなら、人間の「性欲動」はもともとはっきりした対象や目標を持たないものであるからだ。

「われわれが『欲動』という言葉で理解しているものは、さしあたっては、つねに流動し続けている体内の刺激源の心的な代表である。〔中略〕この欲動の性格についてのもっとも単純でわかりやすい定義は、欲動はそれ自体はいかなる性質ももたず、心的な生の作業を進める条件尺度としてだけ理解できるということだろう。」



2.幼児の性愛(第2篇)

 そこでフロイトは続けて、幼児にそもそも備わっているとされる性欲動にについて考察していく。

 しかしこの性欲動は、いずれ「抑圧」される運命にある。

「新生児は、誕生の時点ですでに性的な興奮の萌芽をそなえていること、この萌芽はしばらくの間は発展し続けるが、その後持続的に抑制されるのは確実なことと考えられる。」

 なぜ抑圧が起こるのか。フロイトは言う。

「まず、生殖機能が停止しているため(これが潜在期の主要な特徴である)、小児は自分の性的な興奮を利用できない。また、こうした性的な興奮はそもそも倒錯したものである。すなわち、これは性感帯から生まれるものであるが、個人の発達方向においては、不快な感情しか生み出さないような欲動に支えられているのである。このように、小児の性的な興奮は心的に反対の力(反動興奮)を呼び起こすのであり、この力がこうした不快感を効果的に抑制するために、上記のような心的な堤防、すなわち嫌悪感、羞恥心、道徳心などを構築するのである。」

 幼児期においては性的な能力がないので、性欲動を満足させることができない。そこでこの不快感を抑圧することで、エネルギーは別の方向へと向けられることになる。これをフロイトは「昇華」と呼ぶ。

 ではこうした子どもの性的発達は、どのように起こるのか。

 まず、前性器的段階がある。いわゆる口唇期肛門期である。子どもは、唇や肛門において性的興奮を得る。

 この状態を経て、子どもたちはいよいよ性器的な発達を迎えることになる。



3.思春期における変化(第3篇)

 思春期を迎えると、子どもたちは性器における快感を覚えるようになる。

 しかしその前に、性器以外における快感も知る。これをフロイトは、前駆的快感と呼ぶ。対して性器による快感を最終快感と呼ぶ。そして言う。

「正常な性目標を達成するという目的からみると、前駆快感が感受されるメカニズムには、危険な要素があるのである。性目標が達成される前の段階で、前駆快感があまりに大きくなり、性的な緊張が小さくなりすぎると、この危険性が発生する。この場合には性プロセスをさらに促進させるための駆動力が失われ、全体のプロセスが短縮され、性目標を準備する営みが、正常な性目標の代用となる。」

 前駆的快感があまりに大きくなりすぎると、性目標が正常な地点にまで到達しない。そうフロイトは言うのである。

 そこでフロイトは、私たちにそもそも備わっているとされる性欲動(=リビドー)について考察を深めていく。

 リビドーは、まずは自我リビドーとしてある。自体愛的なリビドーがそれである。

 自我リビドーはやがて何らかの対象に向かい対象リビドーとなるが、しかしフロイトによれば、これはやがて再び自我へと連れ戻され、ナルシシズム的リビドーとならざるを得ない。

「対象リビドーの運命を考察すると、これが対象から引き離され、特別の緊張状態において動揺しながら維持され、最後には自我の中に連れ戻されることが明らかになる。ここでこのリビドーは、再び自我リビドーとなる。」

 先述したように、対象リビドーは決して満足させることができないからである。

 フロイトによれば、対象リビドーがまず向かう先は、母親である。母親は自らを子どもにとっての性的対象とすることで、子どもの性的発達を促しているというのである。

「子供が自分の世話をしてくれる人に感じる濃やかな情愛や評価と、性的な愛が同じものであると考えることに抵抗を感じる人もいるだろうが、さらに精密に心理学的な研究を進めれば、この二つが同一のものであることは、疑問の余地なく確認できるはずである。」

 しかしこの母親への性的興奮は、まず叶えられることがない。そしてこれは、新たな苦悩へと展開することになる。

「このように明らかに近親相関的な空想を克服し、放棄すると同時に、思春期においてもっとも重要で苦痛な心的な営みが行われる――両親の権威からの離脱である。」

 ここで問題が生じる。

「両親の権威を克服することができず、自分の情愛を両親からまったく回収することができないか、不完全な形でしか切り離すことができない人々もいるのである。」

 フロイトによれば、こうした幼少期の性的不満足、それに伴う両親に対する不安定な感情が、ヒステリーや神経症の最大の原因である。

(苫野一徳)


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