ウィトゲンシュタイン『哲学探究』

はじめに

 前期ウィトゲンシュタインの著作『論理哲学論考』における主張を、全部ひっくり返してしまったと言われる後期の主著。

 『論理哲学論考』において、ウィトゲンシュタインは、言葉と事実は正確に対応しており、それゆえ正しい言葉の使用によって真理に到達することができると主張した。

 しかし、『論考』においてウィトゲンシュタインは続けて次のように言う。事実に対応しているかどうかを検証できる命題はあまりに限られている。それゆえ結局のところ、「語り得ないものには沈黙せよ」と言わざるを得ないのだ、と(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』のページ参照)。

 さて、本書でウィトゲンシュタインは、こうした前期の主張を根本から退ける。

 そもそも、言葉と事実(対象)が一対一対応だということからして間違っている。たとえばわれわれは、「水!」という言葉を発する時、対象としての「水」を指し示すだけでなく、「水をください」「水をぶっかけてやれ」「 煉ようかんじゃなくて水ようかんの方をください」といった、様々な意味を込める。

 つまりわれわれは、完全に正確な言語体系を営んでいるのではなく、そうした「言語ゲーム」の中で言語を多様な仕方で使用しているのである。

 言語の絶対的な意味や使用法はない。それは常に、文脈依存的なのである。

 言われてみれば当たり前のことではあるが、この洞察は、それまでの論理学の前提を大きく覆す考えだった。そしてこのウィトゲンシュタインの洞察が、いわゆる「言語論的転回」の嚆矢となった。正確な言語使用法を解明するのではなく、われわれはどのような仕方で言語ゲームを営んでいるか、その記述に立ち向かうこと。

 後期ウィトゲンシュタインの洞察は、今なお言語哲学の頂点に輝いている。


1.言語ゲーム

 本書の最重要キーワードは、何と言っても「言語ゲーム」だ

 ウィトゲンシュタインは言う。従来、言葉と対象とは、一対一対応の関係にあると解されてきた。

 たとえば、「石」という言葉とこれが指し示す対象があり、「悲しい」という言葉とこれが指し示す対応がある。人間は、あらゆる対象に言葉(名前)を与えたのだ。従来そう考えられてきた。

 ところがウィトゲンシュタインは言う。

 ある大工が、別の大工に次のように言ったとしてみよう。

「台石!」
「柱石!」
「石板!」
「梁石!」

 従来の言語観からすれば、これは、単に「台石」という対象を名指しただけである。しかしこう言われた方の大工は、その言葉に応えて、「台石」を彼に手渡すのだ!つまり彼らの間では、「台石」という言葉は、そう言われたらそれを手渡せという、そのような意味をもったものとして使用されているのである。

 それゆえウィトゲンシュタインは言う。言語とは、単に対象を名指している(これを直示的教示という)だけのものなのではない。むしろ、それはコミュニケーションにおいて慣用的に使用されるものなのだ。

 この慣用的な言語使用の全過程を、ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と呼ぶ。そして言う。それは、実に多様な形態をとったゲームなのである、と。

「感嘆詞だけを考えてみよう。それらには、まったく異なった機能がある。水!あっち!わあ!助けて!すごい!だめ!」

 これらたったひと言の感嘆詞だけであっても、その時々の文脈によってまったく意味が異なって来る。「水!」という言葉の意味は、先にも書いたように、「水をください」でも、「水をぶっかけてやれ」でも、「 煉ようかんじゃなくて水ようかんの方をください」でもありうる。

「すなわち、直示的な定義は、いかなる場合にも、あれやこれやに解釈されうるのである。」


2.家族的類似性

 ではこの言語ゲームとはいったい何なのか。それは、いったいどのような法則に従い、どのような様相を呈しているものなのだろうか。

 ウィトゲンシュタインは言う。言語ゲームの本質を完全につかみとることはできない、と。

 「石板」という言葉の、絶対的本質などはない。その絶対的な使用方法などはなく、この言葉は、コミュニケーションの文脈において、何となく似てはいるが絶えず異なった仕方で発せられる。

 この「何となく似ている」ということを、ウィトゲンシュタインは「家族的類似性」と呼んだ。

「すべてに共通なものは見ないだろうが、それらの類似性、連関性を見、しかもそれらの全系列を見るだろう」

 そして言う。

「考えるな、見よ!」

 われわれは普段、この言葉の絶対的な使い方は何か、などと考えながら言葉を発しているわけではない。その家族的類似性をなんとなく「見」ながら、つねにすでに言語ゲームを営んでいるのである。


3.論理学への示唆

 以上の発見は、論理学の大転換をなすものであるとウィトゲンシュタインは言う。

 従来論理学は、言葉を正確に使用し、正しい明晰な認識判断を可能にするものとして構想されてきた。しかしウィトゲンシュタインは言う。

「論理学の中にあいまいさなどありえない――とわれわれは言いたがる。われわれはいまや、理想的な〈ねばならぬ〉が現実の中に見出される、という考えにとらわれている。」
「われわれは、それを取りはずすという考えに思い至らない。」

 そして言う。

「しかし、そのことによって論理学が全く消滅してしまうわけではなかろう。〔中略〕透明な純粋さという先入見は、われわれが自分たちの全考察を転回することによってのみ、取りのぞくことができるのである。」

 言葉やその使用法によって、正しい客観的な知識に到達できるという考えをやめよ。そうではなくて、われわれはどのような言語ゲームを営んでいるのか、その営みを記述解明せよ。ウィトゲンシュタインの主張は、ひと言で言えばそういうことだった。

「あらゆる説明が捨てられ、記述だけがその代りになされるのでなくてはならない。」
「言語ゲームをわれわれの体験によって説明することが問題なのではなくて、言語ゲームを確認することが問題なのである。」
「言語ゲームを始源的なものと見よ!そして、感じ等を、言語ゲームの一つの考察のしかた、一つの解釈を見ているかのように見よ!」

(苫野一徳)

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