バタイユ『呪われた部分』

はじめに

 ヘーゲルは人間の精神をダイナミックに描いたが、バタイユはそこから零れ落ちたものを、ぐっとつかみ出した人であったようにわたしは思う。

 人間というのは、そうそう理性的でばかりあるわけではない。むしろわれわれは、理に合わないほどにばかげた蕩尽に身をやつし、いかんともしがたいエロティシズムに身を焦がす、実に非合理な存在なのだ。

 本書は、バタイユが提唱する普遍経済のあり方を解明する試みだ。

 個々人の営みからではなく、人類全体的に経済をみる。そうすると、今までに見えてこなかった、人間の奥深くのものが浮かび上がってくる。

 バタイユの筆は、相変わらず冴えている。


1.人間の根本問題=奢侈

「生物や人間に根本的問題を突きつけるものは、必要性ではなく、その反対物、『奢侈』である。」

 われわれは、ある必要性に応じて生を営んでいると思い込んでいる。お腹が空いたから食事をし、淋しいから人を求める。

 しかし人間の根本は、このような必要性の理論からは説明できない非合理なものだ。これを少なからず論理的に理解するには、人間存在を「奢侈」の観点から見る必要がある。

「総じて成長があるのではなく、ただ単にありとあらゆるかたちでの贅沢なエネルギー浪費があるにすぎないという事実を、強調しておこう。地球上での生命の歴史はもっぱら狂おしい充溢の結果である。すなわちその主要な事件は奢侈の発達、次第に経費のかさむ生命形態の産出にほかならない。」

 われわれはたえずエネルギーを溜め込んでいる。だからこそ、これをいつも贅沢に浪費する必要がある。個々人の観点ではなく、人類全体の観点からみればこのことがよくわかる。

 2つの世界大戦もまた、人類の過剰に溜め込んだエネルギーを浪費する営みだった。「ある時点に達すると、拡張の利息は逆の利息、すなわち奢侈のそれによって相殺される。」のだ。


2.普遍経済の解決策と「自意識」

「普遍経済がまず第一に明らかにするものは、現時点において爆発的緊張の限界にまで高められた、この世界の爆発的性格である。〔中略〕このような呪詛は、それを取り除くことは、人間次第、ひとえに人間次第であることを、ためらわずに原則として認めなければならない。」

 2つの世界大戦にみられるように、われわれの過剰エネルギーは、時として凄惨な悲劇を生む。もしもこのような悲劇を再び経験したくないのなら、まずわれわれがこのような「蕩尽」存在であることを、つまりわれわれの「呪われた部分」を自覚することだ。そうバタイユはいう。

 われわれのこの本質的部分を知れば、何らかの解決策も見出せるはずであるからだ。


3.「蕩尽」の例証

 人間が「蕩尽」存在であることを、以下バタイユは例証していく。

 それはたとえば、アステカの「生贄」であったり、アメリカ・インディアンの「ポトラッチ(贈与)」であったり、チベット仏教の「宗教的奢侈(僧院にすべてを与える)」であったりする。

「全体として社会は常にその存続に必要である以上に生産し、超過量を処分する。社会を決定づけるものはまさしくそれの使用法である。」

 それぞれの社会は、必ず何らかの「蕩尽」をする。
 
 アステカの「生贄」は、アステカに労働が始まってから起こった。「労働」は有用性の世界である。そして「生贄とは有用な富の総体のなかから取り除かれる一種の過剰である。」
 
 われわれはただ有用性の世界には生きられない。われわれは本来的に、過剰なエネルギーの浪費を必要としているのだ。

 ポトラッチは、相手に徹底的に財産を贈与する営みである。

 貧しいチベットの人たちは、戦争などの方法によってエネルギーを拡張することができなかった分、自らの集団内部における蕩尽、すなわち僧院への富の浪費を行った。

 以上のように、われわれ人類を普遍経済的にみるならば、ここに「蕩尽」という本質が浮かび上がってくるのだ。


4.有用性ではなく自由消費

 本書におけるバタイユの結論は、簡明にしてショッキングである。

「歴史の動きによって絶え間なくもたらされる資格の変貌に人間集団が必然的に寄せる関心、栄誉への関心と重なる関心(同じく失墜への関心とも重なる)の側に立つならば、要するにこの動きを抑制したり或いは限られた目的に導いたりできないことを慮るならば、いさぎよく、有用性に相対的価値を割り当てることも可能である。人間が生計を確保するのは、或いは労苦を避けるのは、そうした機能がそれだけで十分な結果を約束するからではなく、自由消費の非従属的機能に到達せんがためである。」

 透徹した人間洞察が、ここにある。


(苫野一徳)



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