竹田青嗣『人間的自由の条件』


はじめに

 社会の原理論として、おそらく今世紀最強度の哲学として鍛え上げられた本だと私は思う。

 個人的な話だが、私はこの本で哲学のすごさを知った。2004年の暮れのことだった。

 この人は天才かも知れない、と思った。

 信念対立を生んでしまいがちな「理想理念」や過剰な「ロマン主義」思想を克服し、誰もがそうだと納得せざるを得ないような「哲学」を打ち立てている反面、だからこそ、「理想主義者」「ロマン主義者」の一面も持ち合わせている人に違いない、と思った。

 そして、人間の弱さや悲しさを知っているからこそ、厳しくも温かい人であるに違いない、と想像した。

 それから、彼の著作を全部読んだ。


 2005年春。竹田が早稲田の教授に就任したことを知った。

 当時早稲田大学大学院の博士課程に入学したばかりだった私は、いてもたってもいられなくなった。

 そうして、会いに行くことにした。

 想像通りの人だった。

 私の熱意と思いが伝わってくれたのだろう。いつしか私は、竹田のもとで、竹田とともに、哲学をするようになっていた。

 あまり軽々しくは使いたくない言葉だが、やはり天才だと思う。哲学の「読み」の能力、その「本質」をつかむ力、これを人に伝える力、そして、原理的思考。どれをとっても超1級だ。

 しかし天才と変人は紙一重、の言にもれず、かなり変わった人でもある。たぶん、本人は自覚していない(笑)


自由の相互承認と一般意志

 本書のポイントはいたって簡明だ。

 近代市民社会の本質は何か。

 それは「自由の相互承認」である。

 どのような社会をわれわれは「正当」といえるか。

 それは「一般意志」に基づく社会である。

 暴力支配絶対権力支配などによる社会をわれわれが欲さないのである限り、われわれが現在構想しうる社会の原理はこの「自由の相互承認」と「一般意志」以外にありえない。この考えは近代哲学の到達点であって、竹田はこれを再び、現代において鍛え直そうと試みる。

 いわれてみればあたりまえの原理なのだが、しかしこのような考え方は、実は現代哲学において、マルクス主義の失敗や資本主義の問題の経験から、むしろ否定されるべきものとして扱われている。

 しかし現代哲学は、この原理の本質を見誤っている。ポストモダン思想が提示したのは結局は「対抗原理」に過ぎず、これはなんら問題を本質的に解決する考え方ではない。

 こうして竹田は、上記の原理をきわめて丹念に検証していくのだ。

 この本の見事な点の1つは、その検証過程において、きわめて幅広い哲学的知識が縦横無尽に張り巡らされていることだ。「自由の相互承認」と「一般意志」の原理性を、これでもかというほどに、たたみかけるように説いてくる。

 もう1つ、この本のすごいところは、超難解で知られるヘーゲルの哲学を丹念に読み解き、これを現代に蘇らせるとともに、社会の原理論として再提示していることだ。

 ちなみについでに言っておきたいが、竹田の「読み」には確かに独特のものがある。

 フッサール現象学の「読み」しかり、今回のヘーゲルの「読み」しかり。

 アカデミズムにおける「常識」を、いつもくつがえすような「読み」をみせてくる。

 だから、竹田はちゃんと原書を読んでいないとか、自分勝手に解釈しているとか言って批判されるのだが、しかしそんなことはない。彼はちゃんと自分の「読み」を検証しながら、丹念に丹念に読んでいる。

 その過程をまったく見せずに、自分のつかんだものをドーンと提示してくるからこちらは驚くのだ。本質をつかむ能力が天才的だからこそなのだろうが、しかしそういう意味では、私は、せっかくなんだからもう少し自分の読みの「検証」過程を明示してもいいのに、とも思う。もっともそれは「アカデミズム」式であって、竹田のような哲学者にはなじまないやり方だということも十分に理解している。

 竹田は、哲学をその「本質」においてとらえる。その「意義」を捉える。

 創始者よりも、継承者のほうがその最初の発想の意義をより深く理解し、より上手に使いこなせるということはしばしば起こる。

 竹田とフッサール、あるいはヘーゲルとの関係も、そのようなものだと私は思う。

 彼はフッサールやヘーゲルのモチーフをいわば彼ら以上につかみとり、その意義をより十全なものに鍛え上げたのだ。
 哲学の営みとは、本来そのようなものであったのだろうと思う。

 ともあれ、本題に戻ろう。

 本書におけるヘーゲル哲学のポイントは、人間的「自由」の本質にある。

 ヘーゲルによると、人間的欲望の本質形式が「自由」である。われわれは、「自由」たりたいと本来的に願う存在なのだ。

 このことを私なりに言ってみよう。

 われわれは「自由」たりたいと本来的に願う存在である。

 ほんとうにそうか?

 と、疑問に思う人もいるのではないか。

 われわれはむしろ「幸福」たりたいと思うのではないか?

 そのように思う人もいるかも知れない。

 確かにその通りだろうと思う。

 しかし「幸福」とは何か、と問うてみよう。

 何をもって「幸福」と思うかは、人によって違う。
 
 有名になることを幸福と思う人もいれば、有名であることを不幸だと思う人もいる。

 美しい人を手に入れることを幸福と思う人もいれば、美しい人を手に入れたからこそ不幸になったと思う人もいる。
 
 絶対的な「幸福」のあり方などはない。

 しかしその内実をよくみれば、そこからある「本質形式」が浮かび上がってくるのがわかる。

 それが「自由」の感度だ。

 われわれが「幸福」だと感じるとき、そこには必ず「自由」の感度がある。

 いろんな意味で、わたしたちはやりたいことを制限されている。しかし「幸福」な時、わたしたちは、確かに何らかの制限のもとにあったとしても、それでもこれを乗り越えていけるのではないかという可能性を見出すことができる。これが「自由」の感度だ。

 さて、この人間的欲望の本質の考察から、ヘーゲルや竹田は社会のあり方を構想する。


 その力強い過程は、皆さんに直接読んでいただきたいと思う。




(苫野一徳)






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