プラトン『パイドロス』


はじめに

 プラトン中期の作品。

 テーマは弁論術

 一般には、恋を例として弁論術について論じた著作とされるが、私には鮮やかなプラトンの恋愛論こそがこの本の魅力に思える。

 恋の狂気、それは、私たちに「ほんとうの美」や「ほんとうの生」を知らしめる、気高い狂乱である。

 プラトンの紡ぐ美しい言葉を、じっくり味わいたくなる名著だと思う。




1.恋の狂気は錯乱か?

 本書は、アテナイの知識人パイドロスと、プラトンの師ソクラテスとの間に交わされた対話篇である。

 冒頭においてパイドロスは、著名な弁論家リュシアスの語った話について物語る。

 その趣旨は、「自分を恋している者よりも恋していない者にこそむしろ身をまかせるべきである」というものである。

 とは狂気であって、それは一種の錯乱であるからだ。

「じっさい、恋している人たち自身でも、自分が正気であるというよりはむしろ病気の状態にあることを認め、また、自分の精神の乱脈ぶりを知りながらも、ただ自己を支配することができないのだということを、認めているのだから。」

 ソクラテスはこのリュシアスの考えに与しない。彼はまず次のように言う。

「実際には、われわれの身に起こる数々の書きものの中でも、その最も偉大なるものは、狂気を通じて生まれてくるのである。むろんその狂気とは、神から授かって与えられる狂気でなければならないけれども。」

 恋の狂気とは、むしろわれわれにおいて最も気高いものでさえある。これがソクラテス(プラトン)の主張したいことである。以下彼は、このことを証明するためパイドロスに語り聞かせていく。 


2.恋とは真の「美」を想起すること

 まずプラトンは、魂の不死を次のように証明する。
 魂とは常に動いているものである。それゆえこれまでずっと動き続けてきたのであり、したがって不死なのである、と。

 ということは、私たちの魂は、私たちがこの世に生を受ける前、天界において存在していたはずである。プラトンはそう続ける。

 それはつまり、私たちが「真実在」の世界をかつて見ていたということである。

「じっさい、もしいやしくも、魂がかつて一度も真実在を見なかったならば、そのような魂は、われわれ人間のこの姿の中にはけっしてやって来ないであろう。なぜかというと、人間がものを知る働きは、人呼んで形相(エイドス)というものに則して行なわれなければならない、すなわち、雑多な感覚から出発して、純粋思考の働きによって総括された単一なるものへと進み行くことによって、行なわれなければならないのであるが、しかるにこのことこそ、かつてわれわれの魂が、神の行進について行き、いまわれわれがあると呼んでいる事物を低く見て、真の意味においてあるところのもののほうへと頭をもたげたときに目にしたもの、そのものを想起することにほかならないのであるから。」

 これが有名な「想起説」である。
 魂はかつて真実在の世界に存在していた。それゆえに、私たちはこの世で「美」を見たときに、それが「美」であることを知ることができるのである。プラトンは言う。

「《美》は、あのとき、それを見たわれわれの眼に燦然とかがやいていた。」

 では恋とは何か。それは、このかつて見ていた真なる「美」に触れた狂喜である。

「狂気という。しかり、人がこの世の美を見て、真実の美を想起し、翼を生じ、翔け上ろうと欲して羽ばたきするけれども、それができずに、鳥のように上の方を眺めやって、下界のことをなおざりにするとき、狂気であるとの非難を受けるのだから。」

 こうしてプラトンは、恋に否定的なリュシアスの論を「論駁」する。

 もっとも現代の私たちは、このあまりに神話的に過ぎるプラトンの説を、そのままに信じることはできないだろう。

 しかし私は、このプラトン恋愛論は、人間における「恋」の意味を深く描き出したものであると思う。

 私たちは恋をした時、「ああこれが〈ほんとう〉だったのだ」と思う。「ほんとうの世界」「ほんとうの美」「ほんとうの生」……。こうした「ほんとう」に、私たちは恋を通して触れることができるのだ。

 その意味で、プラトンの恋愛論は極めてすぐれた人間論であると私は思う。


3.弁論術について

 ここで話は、弁論術についてへと移る。
 パイドロスはまず次のように言う。

「親愛なるソクラテス、私は次のように聞いています。つまり、将来弁論家となるべき者が学ばなければならないものは、ほんとうの意味での正しい事柄ではなく、群衆に――彼らこそ裁き手となるべき人々なのですが――その群衆の心に正しいと思われる可能性のある事柄なのだ。さらには、ほんとうに善いことや、ほんとうに美しいことではなく、ただそう思われるであろうような事柄を学ばなければならぬ。なぜならば、説得するということは、この、人々になるほどと思われるような事柄を用いてこそ、できることなのであって、真実が説得を可能にするわけではないのだから、とこういうのです。」

 要するに、弁論術とは、まさに「詭弁」であるしまたそうあるべきだと言うのである。

 これに対して、プラトンはソクラテスに次のように語らせる。

「正しきもの、美しきもの、善きものについての教えの言葉、学びのために語られる言葉、魂の中にほんとうの意味で書きこまれる言葉、ただそういう言葉の中にのみ、明瞭で、完全で、真剣な熱意に値するものがあると考える人、――そしてそのような言葉が、まず第一に、自分自身の中に見出され内在する場合、つぎに、何かそれの子供とも兄弟ともいえるような言葉が、その血筋にそむかぬ仕方でほかの人々の魂の中に生れた場合、こういう言葉をこそ、自分の生み出した正嫡の子と呼ぶべきであると考えて、それ以外の言葉にかかずらうのを止める人、――このような人こそは、おそらく、パイドロスよ、ぼくも君も、ともにそうなりたいと祈るであろうような人なのだ。」

 リュシアスのように、恋の狂気を何とでも理由をつけておとしめるなどもってのほかである。むしろ私たちは、それがいったい私たちにとってどのような意味を持っているのか、真剣に考える必要がある。つまり私の「魂」「ほんとうの意味で書きこまれる言葉」を、哲学者(知を愛する者)たるもの紡ぐべきである。

 本書の最後に、プラトン(ソクラテス)は次のように言っている。

「これを『知者』と呼ぶのは、パイドロス、どうもぼくには、大それたことのように思われるし、それにこの呼び名は、ただ神のみにふさわしいものであるように思える。むしろ、『愛知者』(哲学者)とか、あるいは何かこれに類した名で呼ぶほぅが、そういう人にはもっとふさわしく、ぴったりするし、適切な調子を伝えるだろう。」

(苫野一徳)

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