プラトン『国家』


はじめに

 一般に、プラトンのイデア説は、絶対なるイデアの世界があり、現実はこのイデアにあずかって存在しているのだとする思想とされている。

 この一種の「真理主義」は、特に19世紀、ニーチェによる徹底的な批判を受けて以来、今日に至るまで極めて評判が悪い。

 悪しき西洋形而上学(現象界を超えた「絶対」の世界を探究しようとする学)の源流、プラトン。プラトンは今日、一般にそのように解されている。

 しかし本書を読めば、プラトンのイデア説が、一般にいわれるような単なる真理主義ではないことに気がつくはずだ。

 イデア説は、目に見える現象界を超えた絶対の世界がある、などという、素朴な真理主義などでは決してない。

 それは、われわれ人間は、「真」「善」「美」のイデア、つまり、「真」それ自体、「善」それ自体、「美」それ自体を求めてしまう存在であるという、極めてすぐれた人間洞察の思想なのである。

 そしてプラトンは、世界はこのような人間的な生き方に応じてその姿を現すのだと主張した。本書を辿りながら、以下そのことについて確認したい。


 本書の第一の主題は、「正義」について。「正義」とは何か、そして正義にかなった「国家」とは何か。プラトンは本書で、この問いに少しずつ答えを与えていく。

 また、本書は教育学必読の書とも言われている。プラトンの教育思想が明快に述べられている、有名な「洞窟の比喩」について論じられているからだ。

 正直なところ、私は、「哲人王」をはじめとしたプラトンの政治思想にはほとんどリアリティを感じない。

 しかしそれでもなお、本書におけるプラトン(ソクラテス)の思想には、今なお哲学の中心に据えられるべき、数多くの洞察がある。

 以下、そんなプラトンの代表作の1つを、味わっていくことにしよう。


1.対話のはじまり正義とは何か

 プラトンの著作は、彼の師ソクラテスが、友人や論敵たちとの対話を通して、問題の本質に徐々にせまっていくという戯曲式のスタイルで描かれている。

 本書の対話は、ソクラテスとソフィストのトラシュマコス、またグラウコンという若者との、「正義」についての議論からはじまる。

 トラシュマコス「では聞くがよい。私は主張する、〈正しいこと〉とは強い者の利益にほかならないと。」

 強い者は支配者となり、法を定める。そしてそれが正義とされる。したがってそもそも正義とは強い者の利益のことであり、そのような強者になれないもの、つまり弱者こそが、不正義の者とされる。そうトラシュマコスは主張する。
 
 これは、現代の一般的な「正義」観からは相当かけはなれた考えだろう。

 現代では、「正義」は多少なりとも弱者救済的であることを含意している。

 しかしトラシュマコスは、これに真っ向から反対するのだ。

 ちなみに、ニーチェもまた後に同じような主張を繰り広げている(『道徳の系譜』のページ参照)。

 「よい」とはそもそも強者の価値判断であり、そのような強者になれない弱者が、ルサンチマンによってこの価値を反転させ、それが今のねじれた「よい」の価値になってしまったのだ。そうニーチェは主張した。

 人間は、強くなりたい、あるいは少なくとも他人から支配されたくはない、と思うものだ。それゆえ、「よい」とか「正義」とかいうものは、そもそもは、そのように強く生きることのできる強者の価値なのだ。

 トラシュマコスやニーチェの考えには、それなりの妥当性があるように私は思う。

 しかしプラトン(ソクラテス)は、この考えを強く否定する。特に、不正をはたらくものはばか正直に正義を守る人間よりも得をする、というトラシュマコスの考えを、彼は決して認めなかった。

「ぼくは君の言ったことを信じない。不正のほうが正義よりも得になるなどとは、けっして思わない。」

 長い対話篇は、こうしてはじまる。




2.ギュゲスの指輪

 ここでグラウコンという若者が登場し、おもしろい物語を話し出す。

 ある日、羊飼いのギュゲスが、指に嵌めると姿を消すことのできる指輪を見つけた。そこでギュゲスは策を弄し、この指輪を使って王妃と通じた上に王を殺し、その国の王座をかちとった。

 まさに、不正によって幸福をかちえた男の物語だ。

 このような物語を聞いてもなお、プラトンは正義のほうが不正よりも優れていると主張しうるだろうか。




3.国家について

 プラトンはここから、「国家」について話し出す。われわれが共同生活を送っている以上、「正義」もまた、せまい個々人の問題として考えるよりは社会的な問題として考えたほうが適当であるからだ。

 そこで、彼はまずよい国家とは何かを考える。

「われわれが国家を建設するにあたって目標としているのは〔中略〕、そのなかのある一つの階層だけが特別に幸福になるように、ということではなく、国の全体ができるだけ幸福になるように、ということなのだ。」

 これは今考えればあたりまえの思想だが、2500年も前に言われたものであることを考えると、実に先駆的な思想だったと言うべきだろう。

 ソクラテスプラトンが生きた、民主制アテネだったからこそ花開いた思想と言えるだろう。




4.哲人王

 さて、しかしそのような国家を実現するのは、もちろん決して容易なことではない。
 
 そこでプラトンは、ここで「哲人王」の思想を披瀝することになる。真の知恵をもった哲学者だけが、そのような国家を統治することができるのである、と。

「では、真の哲学者とはどのような人だと言われるのですか?」

 というグラウコンの問いに対して、ソクラテスは答える。

 それは、「真実を観ることを愛する人たちだ」と。 

 プラトンの考えでは、名誉欲や快楽に流されるのではない、ただ真理のみを愛する、そのような哲学者こそが、国全体の幸福を考えられる統治者としてふさわしいということになる。


5.イデア

 では、この哲学者たちが愛するという「真理」とは何か。

 プラトンによれば、それこそがイデアだということになる。

 プラトンは言う。イデアのおおもとには、真・善・美のイデアがある。つまり、真それ自体、善それ自体、美それ自体である。しかしその中でも、善のイデアこそが、イデアの中のイデアと呼ばれる最も位の高いイデアである。

 プラトンはさらに言う。それは、この世のあらゆるものを存在させているその根拠ですらあるのだと。

「あるということ、その実在性もまた、〈善〉によってこそ、それらのものにそなわるようになるのだと言わなければならない」

 これは一体どういう意味なのか。プラトンは、なぜそのように言うことができるのか。

 イデアのイデア、といわれると、われわれはむしろ「真」のイデアを思い浮かべるのではないだろうか。「善」それ自体より、「真理」それ自体のほうが、いかにも絶対的な真理の世界としての「イデア」らしい。

 しかしプラトンは、あえてそれを「善」というのだ。彼の説明はなかなか興味深い。

「正しいことや美しいことの場合は、そう思われるものを選ぶ人が多く、たとえ実際にはそうでなくても、とにかくそう思われることを行ない、そう思われるものを所有し、人からそう思われさえすればよいとする人々が多いだろう。しかし善いものとなると、もはや誰ひとりとして、自分の所有するものがただそう思われているというだけでは満足できないのであって、実際にそうであるものを求め、たんなる思われ(評判)は、この場合にはもう誰もその価値を認めないのではないか」

 正しいことや美しいことについては、われわれはこれを確かに欲するけれど、だからといって絶対的に欲するというわけではない。それに比べて、「善」それ自体は、われわれが絶対的に欲するものである。そうプラトンは言うのだ。 

 確かに、私たちは「善」それ自体を求めてしまうものだ。「よく」生きたいと、おそらく誰もが考えているはずだ。その中身が人それぞれに違うにしても、私たちは、自分にとって「よい」生とは何かと常に考えざるを得ない。

 だからこそ、プラトンは「善」のイデアがイデアのイデアであると言うのだ。イデアの中でも、「善」のイデアこそ、私たちが最も本質的に求めてしまうものなのだ。

 冒頭で述べたように、プラトンは今日、悪しき真理主義の元祖であるとして批判されている。 

 しかし以上の「善のイデア」の話を踏まえれば、そうしたプラトニズム解釈は、実は早計な誤解だったと言うべきだ。

 人間は、だれでも自らにとっての「善い」をもとめてしまう。さらに言うなら、私たちの認識の根底には、いつでもこの「善い」を求める気持ちがある。

 「これは本当によいことか?」「これはだれにとってもよいことか?」そのようなことを、私たちはたえず考えながら生きている。

 その意味で、「善」のイデアの希求こそ、この世界の実在を実在たらしめる根拠なのである。

 
もちろんプラトンは、善や真や美の絶対的イデアが実在するというニュアンスでずっと書き続けているから、現代哲学のプラトン批判には一定の妥当性がある。

 しかしそれでも、私には、プラトンが「善」を求める人間の心性を彼の哲学の基軸に据えたたということを、非常に重大なこととして強調しておきたいと思う。
 世界を知るためには、自らを知らなければならない。ソクラテスプラトンに至って、哲学はようやく「汝自らを知れ」をその最大の主題とすることになったのだ。

 そしてその上でプラトンは、だれもが「善」だと思えるような、普遍的な「善」を探究しようと言ったのだ。

 「善のイデア」とは、絶対の真理のことではなく、このようなだれもが納得しうる普遍的な「善」のことなのだ。




6.洞窟の比喩プラトンの教育論

 続いてプラトンは、イデアについて次のような比喩を使った説明を企てる。「洞窟の比喩」と呼ばれる、有名な物語である。

 洞窟の中に、人々がその奥の壁を向いたまま縛られている。

 入口からは太陽の光がさしこんでいるが、彼らはそれが太陽だということを知らない。

 そして背後で何やら人が通ったりしているのだが、彼らに見えるのは太陽の光に映し出された、目の前の壁にみえるその影だけである。

 さて、今そのうちの一人が、縄を解いて後ろを振り返ったとしよう。

 彼はまず、太陽のまぶしさに目がくらんで、何が何だか理解することができないだろう。しかしそれこそが真理のまぶしさなのである。

 やがて彼は、自分がこれまで見ていたものが実は影であったことに気がつくだろう。そしてさらに、その本体を見えるようにしていたものもまた、太陽の光であったことに気がつくだろう。

 こうして彼は、いましめをほどいてただその視線を向けかえただけで、世界の真理を知ったのである。

 これが、「魂の向けかえ」と呼ばれるプラトン教育論の核心である。
 
 われわれは、もともと物を見る力を持っている。しかし見ているものは、影なのだ。この影の実体を知らしめ、そしてさらにその実体を実体たらしめている太陽(イデア)を知らしめること、それこそが教育の役割である。そうプラトンはいうわけだ。

 そして再び、ここで目を向けるべき最高のものは、「善のイデア」である。一人よがりな「善」ではなく、できるだけ普遍的な「善」へと視線を向け変えること。

 これはつまり、教育とは「習俗の価値・ルール」から「普遍的な価値・ルール」へと、視線を向け変えていく営みだということだ。

 私たちは、生まれ育った習俗の価値観をもって成長する。しかしそれは、狭い家族や共同体でしか通用しない、独りよがりの価値観であることがある。

 だからそれを、できるだけ普遍的な価値・ルールへと開いていくこと。これこそが、教育の最も重要な本質なのである。




7.再び正義とは

 以上のようにイデア説について説明し終わったプラトンは、再び正義について考える。

 先述したように、それは社会(国家)との関係で考察されなければならない。プラトンはこれを、各政治形態、つまり、名誉支配制、寡頭制、民主制、僭主制において考察する。そして名誉支配制こそが最も優れた者であり、またそのような魂をもった者こそが、最も正しいものであり、しかも最も幸福なものでもあることを、「証明」していくのである。

 寡頭制は金持ちだけによって支配される国。

 これは必然的に貧しい者たちの反抗を招き社会が混乱する。

 民主制はそうして現れた、市民たちが皆でおさめる国。

 しかし過度の自由はわがままと放埓を許し、結局は法を守らない無政府状態となる。

 そこで必然的に、僭主制(独裁制)が起こってくることになる。独裁者は人々の期待を背負って現れるが、しかしやがては自分に背くものを弾圧し、結局疑心暗鬼の人になるとともに、国自体も弱体化していく。

 それにひきかえ、哲人王によって統治される「名誉支配制」は、哲人王その人がただ「知」のみを愛する人であるがゆえに、つまり「善」のイデアを愛する人であるがゆえに、国は見事に栄えることになる。

 こうして名誉支配制こそが最も優れた国家であり、そしてまた、最も「正しい」国家であるとされる。

 しかも以上のようなわけだから、最も「正しい」「正義」の人こそは、最も「幸福」な人であるともいえる。その他の人たちは、結局社会の退廃を招く結果になるからだ。

 こうしてプラトンは、「善」のイデアを求めることのできる者を「正義」とよび、そしてその人は同時にまた「幸福」でもある、と結論づけた。

 しかし私の考えでは、この論理展開にはかなり無理がある。

 プラトンは、不正義を行う者の方が真面目に正義を行うものよりも幸福になれる、と言ったトラシュマコスを、否定したかった。

 しかし現実には、トラシュマコスの考えは確かに正鵠を射ているというほかない。そこでプラトンは、哲人王による統治という理想を掲げ、そこにおいては正義の人こそが同時に幸福でもあるという、一種のユートピアを描いてしまったわけである。

 しかしこれは、どこまでもユートピアであらざるを得ない以上、トラシュマコスのリアリティを打ち破るような考えにはなっていないと言わざるを得ない。
 冒頭でも述べた通り、私はプラトンの政治思想にはあまりリアリティを感じない。しかしそのイデア説に見られる深い人間洞察は、今日なお読む者に深い感動を与えずにはおかない、哲学史上最も重要な洞察であったと私は思う。

(苫野一徳)


Copyright(C) 2009 TOMANO Ittoku  All rights reserved.