アウグスティヌス『告白』



はじめに

 古代キリスト教神学者の超大物なのに、このあけすけな「告白」……。

 アウグスティヌスは、まったく愛すべき人だ。

 ずいぶん性的に奔放な生活を送っていたらしい。その快楽から抜け出せず、ずいぶん悩んだ青年時代であったらしい。

 それでもは、恩寵をもって救ってくださった。

 そんなことが、ひたすらつらつらと書かれている。

 読みようによっては、ゴシップ記事を読むような面白みもないわけではない。神にひたすら感謝し続ける姿も、彼の誠意が伝わってきてこちらまで熱くなる。

 しかし、すべてを神に還元する彼の哲学的思索は、現代からすればかなりむちゃくちゃなように思われる。(それでも、彼の大著『神の国』に比べれば、まだ哲学的に目を見張るものはある。)

 古代インド哲学(ウパニシャッド)も、仏教思想も、そしてアウグスティヌスやトマス・アクィナスに代表されるようなキリスト教神学も、およそ宗教と密接に結びついた哲学は、基本的には、「世界はこうなっている」という絶対的真理としての世界像を描き出し、それを「推論」によって「証明」するという思索の重ね方をする。

 しかしそれはどこまでも推論に過ぎない以上、われわれには決して証明できない世界像であるというほかない。したがって、どの宗教の世界像が絶対に正しいのかという戦いに決着をつけることは、決してできない。


 そのことを、最も先鋭に、そして最も早い時期に明らかにしたのは、18世紀のカントだった(カント『純粋理性批判』のページ参照)。


 この彼の功績はいまだに十分理解されているとはいい難いが、ともあれカントがこうした形而上学(絶対的真理を探究する学)の無効性を明らかにするまでは、たとえば「神が存在するのになぜ悪があるのか」といった、いわゆるスコラ議論が盛んに行われていた。(現代もなお、こうした議論は形を変えて続いている。カントの功績が、残念ながら十分に理解されていない証左といえるだろう。)

 アウグスティヌスが繰り広げる哲学的思索もまた、基本的にはそうした形而上学である。カントにいわせれば、決して答えが出ることのない、したがって問いそのものが無効な問いを問うている。


 しかしそれでもなお、キリスト者として、そうした決して答えの出ない問いを問い続けざるを得なかったアウグスティヌスの動機はよく理解できるし、また、答えが出ないながらも、自らの推論能力を徹底的に駆使して考え抜いたその思考の軌跡は、まさに人間の思考の軌跡として、歴史に記録されるにふさわしいと私は思う。





1.神を讃える


「偉大なるかな、主よ。まことにほむべきかな。汝の力は大きく、その知恵ははかりしれない。」

 本書では、全編にわたってこの神賛歌がモチーフとして続いている。



2.教育論


教育学的に興味深いくだりを、2つ紹介しておこう。

「大人たちが私のため準備したことばを、一定の教育の順序にしたがって教えてくれたのではありません。わたし自身があなたからいただいた精神によって、独力で学んでいったのです。」
「私は学問を好みませんでしたが、強制されなければ覚えなかったでしょうから、せきたてられるのはいいことでした。」
 

3.性に奔放な青年時代

「私は青年時代、下劣な情欲のためにみずからすさんでゆきました。」

 女たらしで、盗みもした。悪友も多かった。
 
「してはならないことをして喜び、それが楽しいのは、してはならないからであるとは、何たることか。」

 バタイユのページにも書いたように(『エロティシズム』のページ参照)、まったくそれこそが、エロティシズムの本質である。

 そしてアウグスティヌスは、神はしかしそんな自分をも許してくださったと、神に感謝する。


4.自由意志は悪


 本書における興味深い哲学的思索は、自由意志についてである。


「自分たちの悪をなす原因は意志の自由決定であり、悪をこうむる原因はあなたの正しい審判です。しかし私が悪を欲し善を欲しないということは、どうしておこってくるのだろうか。」

 この問いに答えて、アウグスティヌスは言う。

「あなたにとっては、そして全被造物にとっても、悪というものは存在しないのです。」

 自由意志はあるか、あったとすればそれはか。

 神が創ったこの世界に、悪はなぜあるか。

 こうした問題は、キリスト教神学や哲学の、大きな難問だった。

 アウグスティヌスは、自由意志は悪だが、しかしそもそも悪など存在しない、という、なかなかウィットに富んだ答えを与えた。

 先述したように、これら諸問題は、実は典型的な「形而上学」的問いである。カントが後に明らかにしたように、これらの問いに、私たちは答えることが決してできない。

 おそらくカントは、このアウグスティヌスの思索からも、自らの思索のきっかけを掴んだことだろう。

 ちなみにウィトゲンシュタインも、『哲学探究』の冒頭で、アウグスティヌスの思想を引き合いに出し批判している(ウィトゲンシュタイン『哲学探究』のページ参照)。

 アウグスティヌス的形而上学は現代哲学においてほぼ終焉したが、それでもなお、西洋哲学者たちの間において、彼の思想は今なお必須・必読の教養であり続けているようである。 

(苫野一徳)


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