コノリー『アイデンティティ\差異――他者性の政治――』

はじめに

 諸個人の多様性と、個人内部の多様性をどこまでも尊重せよ。そのために、アイデンティティをめぐるアゴーン(闘技)の政治学を構築せよ。

 本書でコノリーはそのように訴える。

 「お前はこうあらねばならない」と強制してくる政治力学に対して、私のアイデンティティとその多様性を守り闘おうとすること。政治哲学は、そのような方向性を指し示さなければならないとコノリーは主張する。

 重要な問題提起ではある。しかし同時に、私にはそれはやや空虚な言葉であるようにも思われる。

 政治哲学の歴史は、多様で異質な人々が、いかに互いに争い合うことなく、できるだけ共通了解を得ながら社会を共に築いていけるかを問うてきた歴史だった。

 その最も洗練された思想を、私たちはルソー「一般意志」とヘーゲルの「自由の相互承認」として持っている。

 「一般意志」の原理は、社会(権力・法)は、ある一部の人たちだけの利益に適うものであってはならず、すべての人の意志(一般意志)を代表しうる時にのみ「正当」といえるという原理。

 そして「自由の相互承認」の原理は、自らの自由を主張し合って繰り広げられた人類の凄惨な殺し合いの歴史を反省し、自らが十全に自由たりたいのであれば、他者もまた自由な存在であることを相互に承認するしかないという原理である。(ルソー『社会契約論』ヘーゲル『精神現象学』『法の哲学』のページ参照)

 したがって政治哲学は、この二つの理念をいかにしてより十全なものたらしめるかという方向で探究される必要がある。

 しかしコノリーは、ただひたすらに、人々の差異を尊重せよ、守れ、と言うだけなのである。

 繰り返すが、コノリーの問題提起は確かに重要である。しかしその一方で、ただ差異を尊重せよ、守れ、と言うだけでは、それは単なる対抗倫理であり、また退行思想であるとさえ言わざるを得ないのではないか。

 重要なことは、人々の差異、アイデンティティを、どのようなものとして尊重し、そしてどのようなものとして相互に折り合いをつけていくことができれば、「自由の相互承認」をより十全なものたらしめていくことができるか、という問いであるはずだ。


1.悪についての2つの問題

 本書の目的を、コノリーはまず次のように言う。


「本書が追求するのは、以下のような確信である。すなわち、アイデンティティと差異との関係には政治が浸透しているが、それにもかかわらず、アイデンティティが関係的な性格を有し、人為的に構成された性格を有することを認めるならば、政治的生活の倫理的な質に差異が生じてくるという確信である。」

 人々のアイデンティティとその差異についての問題を、政治倫理を考えるにあたってしっかり考えておこう。そうコノリーは言うわけだ。

 その際、コノリーは、彼がアイデンティティをめぐる「悪についての2つの問題」と呼ぶ問題を提起する。

「悪の第一問題は、政治的レヴェルでは、ヘゲモニーを有するアイデンティティの純粋性と確実性を守るための一連の試みに由来する。そこでは、こうしたアイデンティティの一体性や確実性に対して最大の脅威をもたらすような差異が、独立した悪(ないし、さまざまな悪の代用品)の宿る場所と定義されるのである。こうした悪の第一問題に対する解決の中から、悪の第二問題が現れてくる。悪の第二問題は、自己アイデンティティについての疑問を提起し、それを解決するための多様な政治戦術に由来する。そうしたアイデンティティは、このような戦術によって自らを定義できるようにするために、自らに対立するものとしての、ある他者を構成するのである。この領域を探求していけば、自己アイデンティティの確かさを保証しようとする試みによってなされる悪と闘うことになる。」

 もって回った言い方だが、要するに悪の第一問題は、「私は私である」というアイデンティティを妨げるものとしての悪、もう1つは、「私は別様の私でもありうる」というアイデンティティの多様性を妨げる悪のことと考えておけばいいだろう。

 コノリーが本書でもっぱら取り組むのは、悪の第二問題の方である。今日とりわけ問題なのは、「私は私である」を妨げようとする政治力学よりも、むしろ、「お前はこのようであれ」と暴力的に命じてくる力の方であるからだ。


2.アゴーン的な倫理

 そこでコノリーは、次のような戦略を提示する。

「本書が追求するのはアゴーン的な配慮の倫理であり、それは、自らが是認するアイデンティティについてしばしばなされる真理性の想定まで、不確実視するような倫理である。〔中略〕本書は、ある特定の秩序からの構造的な要求によって押しつけられた限界に一義的に屈服するのを拒否するような政治、自らが理念とする秩序を組織化するという命令と、そのような命令を越え出る生の賞賛すべき可能性との間の悲劇的な落差に敏感な政治的倫理性を追求する。

 アゴーン的とは、闘争的という意味である。

 私のアイデンティティを決定してくるあらゆる力学に対して、否と言えること。コノリーはそのような政治的倫理のあり方を提起するのである。


3.自由とルサンチマン

 コノリーは言う。現代は一般化されたルサンチマンの時代であると。

 ルサンチマンとは弱者の妬み・そねみのことだが、コノリーは、不安定な現代社会において、人々はむしろ社会的弱者にこそルサンチマンを抱くようになっていると指摘する。

「その最も顕著で政治的に活発な表現は、独立した立場にあると公認されている人々が、依存的状況にあると公認されている人々に対して、すなわち第三世界諸国、有罪を宣告された犯罪者、精神病者、福祉受給者、積極的差別是正措置への応募者、甘やかされた運動選手、未成年者、十代、不法滞在の外国人、そして特権的な大学生たちなどの訴えに対して持つ敵意の中にある。」

 誰もが現代において不安を抱えている。にもかかわらず、なぜ「社会的弱者」と名指されうる者たちだけが、特別の庇護という特権を得られるというのか。

 そのような一般化されたルサンチマンが、現代社会には蔓延している。そうコノリーは言うわけだ。そして次のように主張する。

現代政治学は、一般化されたルサンチマンをやわらげ、歴史的な偶然性に応えるべく努めるべきである。」

 それは一体、どのような政治学でありうるだろうか。


4.リベラリズムの問題

 上記問題を考えるにあたって、コノリーは従来の政治哲学を批判する。

 たとえば彼は、ロールズを代表とする現代リベラリズムを次のように批判する。

「第一に、リベラルな個人主義は、正常な個人を中心に据えるために、多様性の主張に対して冷淡なものとなり、多様性のための空間を非合理性、無責任、不道徳、非行、倒錯といった異常性の基準にもとづいて綿密に定義された一群に囲い込むよう個人を促す。第二に、リベラルな個人主義は、正常な個体性の基準に固執するためルサンチマンを一般に醸成するのに手を貸す。〔中略〕第三に、その法的な政治の観念は、リベラルな社会に個体性のための空間を設けるのに必要な政治的行為、戦闘、闘争の度合いを軽視するきらいがある。」

 要するに、リベラリズムは人々の多様性、また個人内部の多様性を軽視しているというわけだ。


5.コミュニタリアニズムの問題

 続いて、ロールズ的リベラリズムを批判し、共同体における共通善の涵養を説いたコミュニタリアニズムに対しても、コノリーは次のような批判を向ける。

「差異に関して、この立場がとる戦略は次のとおりである。つまり、差異のパラドクスは共通善のうちに解消されねばならない。そうすることによってはじめて、あらゆる他者性を合理的な共同体の枠組にそれか適合するようになるまで改良することが可能となり、また排除された社会層が故郷を見いだしうるようその包摂の条件を完成することが可能となる。」

「しかし疑問がわいてくる。この共通善への信奉を保持するために――それから逸脱するかもしれぬ者をそれに繋ぎ止めておくために――必要とされる排除・罰・拘束・誘因は何によって正当化されるのか。」


 要するにコノリーは、(サンデルが言うような)「共通善の政治」もまた、個々人の多様性を「共通善」なるものに押し込める、一種の排除の政治力学であると言うのである。 


6.差異の政治へ

 そうしてコノリーは、次のように言う。

「政治は、こうした多義性に取り組み、正面から対応し、移動させたり幅を広げたりするのを可能にする媒体にほかならない。政治は、共通の目的を結晶させる媒体であると同時に、その目的が美しい調和へと書き換えられる事態を暴き、それに輿論を提起し、それを撹乱し揺るがすのを完遂するための手段でもある。この両義的な媒体としての政治を可能にする社会こそが、よき社会である。」

 どこまでも個々人の多様性・差異を守り抜くこと。それこそが政治の役割に他ならない。コノリーはそのように主張する。

 それはアゴーン的敬意である。そうコノリーは言う。

「他者との間にある抗争と相互依存の条件を認識することは、とりわけこの認識が相互性の要素を含んでいる場合には、次のような倫理をもたらすことができる。敵対する者同士が、アゴーン的な相互性というモードにおいて互いを尊重し、維持し合う倫理。互いに異なるアイデンティティが、それぞれを構成する差異に対してアゴーン的敬意を育む倫理。そして生を気遣う倫理がそれである。

 人を単一のアイデンティティに決して縛り付けないこと。コノリーの政治思想は、おそらくこの一語に尽きる。

「アイデンティティのドグマ化に対して闘いを挑みながらも、アイデンティティが〔人間の生にとって〕不可欠であるのを肯定すること。いかなる特定のアイデンティティも偶然的な要素を宿しているという事実を露わにすることによって、生のアゴニズムへの配慮を涵養すること。人間存在の両義性を政治化すること。これが、その方向性である。

 こうしたコノリーの問題提起は、確かに重要である。

 しかし繰り返すが、私たちが探究すべきは、ただアイデンティティをドグマ化するなと言い続けるだけの政治哲学ではなく、その上でどのように「自由の相互承認」をより十全に実質化していくことができるかという、そのような問題であるはずだ。


(苫野一徳)

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