イリッチ『脱学校の社会』

はじめに

 1970年代後半から80年代にかけて、「脱学校論」は非常なリアリティと説得力をもって日本の教育界を駆け抜けた。

 イリッチが告発したのは、「価値の制度化」の問題だ。

 価値とはそもそも、個々人が多様に、よりよい生を求めて抱くものであるはずだ。しかしこれが公的に「制度化」されることで、何が価値あるもので何が価値のないものかが、個々人の豊かな生とは関係なく決定されることになってしまった。

 学校教育は、この「価値の制度化」を最も強く推し進める制度の一つである。イリッチはそう主張した。


 何が教育的なもので何が教育的でないものかは、学校が決定する。つまり「教育」は、「学校」に独占されているのだ。学びたいから学ぶのではない、学ばなければならないと決められているから、学ばざるを得ないのだ。

 この制度化された教育的価値を、再び個々人の豊かな生に資するものとして取り戻そう。イリッチはそのように訴える。

 その方法は、制度としての学校を脱却し、自由なコミュニケーションを通した学習機会の網の目、opportunity webをつくることにある。

 個々人が、個々人にとって大切なものを、自らの意志によって学ぶ。学び合う。そのようなネットワークを構築すること。そのことで、個々人の豊かな学びや成長を保障すること。

 現代のインターネット社会、またいわゆるオープン・エデュケーションの世界を、予見していたとさえ言っていいような発想だ。


 さて、しかし私の考えでは、opportunity webの考えは、学校を補完する意味では大変有意義で魅力的なアイデアではあるが、学校をなくしてしまえというアイデアは、現代においてはいまだ時期尚早といわざるをえない。

 確かに学校は、価値を一元的に制度化し、多様な人々の豊かな生を妨げる「側面」をもっている。しかしだからと言って、これを捨てて別のシステムに変えてしまえというのは、ラディカルでインパクトのある面白いアイデアではあるが、今の時点では、あまり現実的ではないように思われる。

 学校教育には、上記のような問題があってもなお、その存続を正当化しうる、きわめて重要な意義がある。その本質的意義を、私たちはしっかりと理解する必要がある。そしてその上で、上記のような問題が必然的に生起してしまうのだとすれば、ではその問題はいかに軽減しうるかと考える必要がある。

 わたしはそう考えているが、ともあれ以下、イリッチの考えを紹介・解説していくことにしたい。(公教育の存在意義、その本質や正当性については、拙著『どのような教育が「よい」教育か』を参照いただければ幸いだ。)

   

 イリッチの死後十余年、彼の思想は、今こそ改めて読み直される必要があるとわたしは思う。


1.なぜ学校を廃止しなければならないのか

「私は以下の拙論において、人々が価値の制度化をおし進めていけば必ず、物質的な環境汚染、社会の分極化、および人々の心理的不能化をもたらすことを示そうと思う。〔中略〕人々が、健康、教育、輸送、福祉、心理的治療といった価値は、制度からのサービスあるいは制度による世話を受けたことの結果として得られるのだと思うようになるならば、この破壊の過程がいかに促進されるかを説明しよう。」

 イリッチの社会批判のキーワードは、「価値の制度化」だ。

 先にも書いたように、価値とは個々人の多様な豊かな生のために、個々人が自ら実感し育てていくものであるはずだ。

 しかし教育も医療も福祉も、みな「あるべき姿」が公的価値によって決定されている

 たとえば、学校的知識を持っていれば持っているほど、彼は「有能」な人とされる。

 医療で言えば、お腹周りが何センチ以上の人はメタボと診断され、「不健康」な人と決定される。

 学校的知識がそれほどなくたって、世故に長けた人はいっぱいいるじゃないか。太っていたって、それで豊かな人生を送っている人はたくさんいるじゃないか。

 イリッチの批判は、さしあたりそうしたものだと考えていい。「価値の制度化」は、個々人の多様で豊かな生を妨げてしまうのだ。

「学校と病院のどちらも、自分自身で自分の治療を行なうのは無責任なことだとか、独学で学習するのは信用できないことだとみなすのであり、また行政当局から費用の出ていない住民組織は一種の攻撃的ないし破壊的活動にほかならないとみなすのである。」



2.学校は貧富の差を拡大する

 またイリッチは、学校制度は、建前上は教育機会を均等化することで貧富の差を埋めていくと言いながら、事実上、その差を拡大しているのだと告発する。

「子供一人当りに支出される費用についてみると、全国民の10パーセントを占める最も貧しい人々の子供に比べて、彼らの子供はその10倍もの公費を獲得するのである。このことの主な理由は、裕福な家庭の子供はより長い年月にわたって学校教育を受けるということ、大学での一年間は高等学校での一年間よりも比べものにならないほど費用がかかること、およびほとんどの私立大学は――少なくとも間接的に――税金からまわされた公費に依存しているということなどである。」

 そして言う。学校制度は、チャンスを平等にしたのではなく、チャンスの配分を独占化したのだと。

 できるだけよい学校、上の学校に行かなければ、もはや社会における一定以上の成功はほとんど期待できない。

 すべては学歴で決まってしまうのだ。そしてこの学歴には、家庭的出自が大きく影響する。

 こうして、学校は貧富の差を埋めるどころか、むしろその差を拡大しているのだ。


3.脱学校のための代替案=opportunity web

 以上のような理由から、イリッチは脱学校の社会を実現する必要性を強く訴える。

 そのための代替案が、opportunity webと言われるものである。

「最も根本的に学校にとって代わるものは、一人一人に、現在自分が関心をもっている事柄について、同じ関心からそれについての学習意欲をもっている他の人々と共同で考えるための機会を、平等に与えるようなサービス網といったものであろう。」

 これは、教育内容や教育形態があらかじめ決められた学校とは対照的に、個々人が、それぞれのニーズや関心に応じて、自由にサービスを受けられるシステムを作るというアイデアだ。

 具体的には、インターネットによる自由な交流サービスを考えればいい。実際イリッチは次のように言っている。非常に先見性のある人であったことは間違いないだろう。

「同じタイトルへの関心をもとに人々を出会わせることは、まったく単純なことである。それは、第三者が記述したものについて議論をしたいというお互いの望みだけをもとにコンピュータで誰であるかという確認をすることを許すのであって、会合をとり決めるイニシアティヴは個々人にまかせておくのである。」

 今まさに、このアイデアが現実のものになっている。イリッチの慧眼には感嘆するほかない。


4.教育改革の指針

 以上のような考えをもとに、イリッチは最後に来るべき教育改革の指針を4つ挙げている。

1.現在、個人または制度が事物のもっている教育的価値をコントロールしているが、そのコントロールを廃止して、すべての人が事物を利用できるように開放すること。

2.求めに応じて技能を教えたり実際に用いたりすることの自由を保証して、技能の分かちあいを開放すること。

3.会を招集し、それを開催する能力――現在、国民を代表すると主張する制度によって、ますます独占されている能力――を個々人に返すことによって、国民の批判的、創造的な資源を開放すること。

4.現在人々は既存の専門職業が提供する援助を期待するように義務づけられているが、個々人をそれから解放すること。

 すべての人の一定程度の力能の獲得を保障しつつ、しかしそれが価値の一元化に陥ることなく、むしろ多様で豊かな個々人の生を促進しうる、そのような教育をどのように構想することができるか。

 21世紀の教育の、大きな課題がここにある。

(苫野一徳)

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