マッキンタイア『美徳なき時代』

はじめに

 いわゆるコミュニタリアニズム(共同体主義)の走りとし
て知られる本書。道徳など結局は気分的なものだ、という情緒主義を批判し、新しい「徳」のあり方を模索した。

 幅広く深い教養に支えられたその論の展開の仕方は、なかなか説得力に富んでいる。

 しかし私の考えでは、マッキンタイアは確かに歴史的分析は一流ではあるが、それを素材として原理的な「徳」のあり方を考える考え方それ自体は、徹底的に鍛え抜かれたものとは言えない。

 失われた共同体への夢、とでも言うべきものが、彼の思想の背後に潜んでいるように思う。個人は共同体に埋め込まれた存在である。だから共同体における「徳」の復権は可能だしまた復権すべきものだ。そうマッキンタイアは言う。

 一面において、そのことは全く正しいだろう。しかしその埋め込まれた中から飛び出したい、自由になりたい、という欲望もまた、人間は持つことがある。そのことを十分に考え合わせた上で、私たちはコミュニタリアニズムの道徳論をより徹底的に鍛え直すべきだと思う。


1.絶対的道徳を失った時代

「私たちの文化においては、道徳的な一致を確保するための合理的な(rational)方法は何もないように思われる。」
「この挑戦により私たちが特に直面させられる、一つの哲学理論が、情緒主義(emotivism)である。情緒主義とは、〈すべての評価的判断、より特定して言えばすべての道徳判断は、それらの判断の性格が道徳的もしくは評価的である限り、好みの表現、すなわち態度や感情の表現に他ならない〉とする教説である。」

 マッキンタイアが問題にするのは、確かな「道徳」が失われた時代に台頭してきた、道徳における「情緒主義」だ。これは、道徳なんて結局好みや気分の問題であって、確かな価値なんてどこにもない、という一種の「相対主義」のことだ。

 そこでマッキンタイアは、なぜ道徳における「情緒主義」がこれほどにも蔓延したかということを詳細に分析していく。


2.啓蒙主義の失敗の理由

「彼らは、道徳の性格に関して大幅に一致していると同時に、〈道徳を合理的に正当化するとはどのようなことであるべきか〉に関しても一致している。」
「そうした論証とは、それぞれが理解しているところの人間本性に関する諸前提から、道徳の規則と教えとがもつ権威についての結論を導こうとするものである。私は、この形態の企ては何であれ、失敗に終わらざるをえなかったことを論証したい。その失敗の理由は、一方で道徳の規則と教えについて彼らが共通に考えていることと、他方で人間本性について考えていることの共通部分――相違点のほうがずっと広範であるにもかかわらず――との間に根絶し難い不一致があることである。」

 まずマッキンタイアが挙げるのは、確かな「道徳」を打ち立てようとした啓蒙主義とその失敗である。

 啓蒙主義は、人間はそもそもどのような存在か、というところから道徳を説き起こした。しかしそのような試みは、結局は失敗せざるを得ないものである。なぜならわれわれは必然的に、「これこそが人間本性だ」と言って対立し合ってしまうからである。

 そしてこの失敗は、「有神論」の崩壊によって決定的となった。

 「神」の存在それ自体があやしくなってくると、絶対的に正しい「道徳」といった観念も、当然危うくなってしまうのだ。


3.アリストテレス的伝統へ

「私たちの文化からアリストテレス主義を駆逐した後、18世紀の一時期には、諸徳というものは私たちが一般的に心地よい(pleasant)とか有用だ(useful)とか思っている特質に他ならないと示唆する――哲学的な作品の中だけでなく墓碑銘の上でも――のが、決まり文句であった。この示唆の奇妙な点は、私たちが一般的に心地よいとか有用だとか思うのは、どんな諸徳が私たちの共同体において一般に所有され涵養されているかに依存するだろうという事実にある。とすれば、諸徳を心地よいことや有用なことに基づいて定義したり同定したりはできないのだ。」

 マッキンタイアの狙いは、道徳における情緒主義、相対主義を棄却し、もう一度ある確かな道徳を打ち立てることにある。もちろん確かな道徳とは言っても、それはもはや「絶対」のものではあり得ない。しかし彼はそれでも、道徳を考える際、ある必然的状況を考慮せざるを得ないことを説く。

 それが共同体だ。

 情緒主義の道徳論のように、たとえ何かを「心地よい」とか「有用である」とか思うことが道徳なのだとしても、そのような感覚は、実はわれわれが共同体から受け取り育まれてきたものなのだ。

「ここで再び、〈埋め込み〉という物語的現象が決定的な意味をもつ。というのも、私たちの時代の実践の歴史は、一般的かつ特徴的には、伝統のもつ一長期にわたる広範な歴史の中に埋め込まれていて、その歴史に基づいて理解可能なものになるからである。その歴史をとおして現在の形態のその実践が私たちに伝えられてきたからである。」

 個人とは、実は共同体の中に埋め込まれた存在である。

 これが、その後のいわゆるコミュニタリアニズムの議論の出発点となった。そしてこのことは、個々に独立した存在として個人を扱うリベラリズムを、鋭く批判する論拠となっていく。

 マッキンタイアの結論は、アリストテレス的伝統の回復、という主張にある。

「私自身の結論はきわめて明白である。その結論とは、〈一方で、〔一〕三世紀にわたる道徳哲学と一世紀にわたる社会科学の努力にもかかわらず、依然として私たちは、自由主義的個人主義者の観点についての何らかの首尾一貫した合理的に擁護可能な言明を欠いているが、他方で、〔二〕アリストテレス的伝統は、私たちの道徳的・社会的態度とコミットメントに理解可能性と合理性を回復する仕方で述べ直されうる〉というものである。」

 共同体を基盤にした「徳」。その涵養。これこそが「道徳論」の出発点となるべきだ。そうマッキンタイアは言うのである。



 さて、以上のような主張や、またサンデルの『リベラリズムと正義の限界』などの著作を皮切りに、その後リベラリズムコミュニタリアニズムの対立が長い間続くこととなった。

 しかし私の考えでは、実のところこの対立を解消することはそう困難なことではない。

 この点についてここで詳論する余裕はないが、関心のある方がいらっしゃれば、拙著『「自由」はいかに可能か』をお読みいただければ幸いだ。




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ドゥウォーキン『権利論』

はじめに

 現代における法・政治哲学の第一人者として名高いドゥウォーキン。本書では、主としてH. L. A. ハー法実証主義を批判しながら、独自の「権利論」を展開している。

 正義感の強い、どこまでも「いい人」なのだろうと思う。しかし私は、その正義感が仇となって、彼の理論は結局のところ「理想理念」の表明に過ぎなくなっている、と思う。

 誤解を恐れずひと言で言うと、彼の理論は各人の「平等な尊重と配慮を受ける権利」をいわば絶対化するものだ。

 「これこそが最も素晴らしい理念だ」、という主張は、必ず信念対立を惹き起こす。そして私のみるところ、ドゥウォーキンは対立する理論に打ち勝つために、次々と細かい議論を展開し、相手の細かい不整合などをついていく。帰謬論、とまではいわないが、それに近い論法だ。

 よい理論はシンプルでエレガントだ。私はそう思う。補足理論でがんじがらめにされた複雑な理論など、結局誰も使いこなせない。現実社会の理論として、ほとんど意味をなさないというほかない。

 私はドゥウォーキンの論じ方に、自分の「理想理念」を守り通すため、なんとか論理整合性を担保しようとする苦渋の跡をみるような気がする。そして実のところ、このサイトでもたびたび論じてきたように、現代法・政治理論の多くは、彼と同じようにとにかく細かく「理屈」を並べて議論を展開するという方法をとる。

 「論じ方」それ自体に誤りがある。私は長らくそう主張してきた。(詳細は拙著『どのような教育が「よい」教育か』〔講談社〕を参照していただければと思う。)

 とは言え、その力技とも言える論理力は圧巻だ。ディベート大国アメリカにおいて、 言葉と論理をどこまでも徹底的に磨き上げればこうなる、というような、一種のお手本のような本だろうと思う。

 それが原理的思考であるかどうかは別として。


1.法実証主義批判

 「法」とは何か。法的義務とは何か。これがドゥウォーキンの問う根本問題だ。
この問題に答えるにあたって、ドゥウォーキンはまず彼以前の主要な法理論である、H. L. A. ハート法実証主義を批判的に検討する。

 ハートのページでもみたように『法の概念』のページ参照)、ハートは法をルール体系として捉えた。その本質は、第一次的ルール第二次的ルールからなる構造にある。ドゥウォーキンはハートの理論を次のようにまとめている。

「一次的ルールとは、社会の成員に権利を認め義務を課するルールであり、窃盗、殺人、スピード運転を我々に禁止する刑法のルールが一次的ルールのよい例である。二次的ルールとは、上記の一次的ルールの形成、承認、改正ないし廃止がどのように、また誰によりなされるかを規定するルールであり、この二次的ルールの例としては、議会の構成や立法手続につき定めるルールがあげられる」

 さしあたり、現行の実体的なルールを一次的ルール、そして、この一次的ルールをルールたらしめるルール(承認のルールがその核となる)を二次的ルール、といっておいてよいだろう。

 しかしドゥウォーキンは、法をルール体系として捉える以上のようなハートの理論を、次のようにいって批判する。ポイントは、「政策」「原理」を区別する発想にある。

「私が『政策』と呼ぶものは、一般的には社会のある種の経済的、政治的、社会的特徴の改善といった一定の到達目標を提示するタイプの規準を意味する。〔中略〕私が『原理』と呼ぶものは、好ましいものと考えられた一定の経済的、政治的、社会的状況をこれが促進したり保護するからではなく、正義や公正その他の道徳的要因がこれを要許するが故に遵守さるべき規準を意味する。」
「重みという特性をもつことや、重要性や重みの度合を有意味に問題にしうることは、原理概念の本質的要素なのである。ルール一般には、この特性がない。」

 「政策」は、社会・経済の状況に応じて変わる、その時々の到達目標とその目標を達成するための方法、と考えればいい。

 一方の「原理」は、そうしたその時々で変わる目標を、さらに基礎づけるような普遍的道徳目標である。

 ドゥウォーキンは、この「原理」の存在を証明することで、単なる「ルール」でない、普遍的な(ほとんど不変的なと言ってもよさそうな)法の理論を作り上げたいと考えている。

「原理の論証とは個人の権利を確立することを意図した論証であり、政策の論証とは集団的目標を確立することを意図した論証である。原理は権利を叙述する命題であり、政策は目標を叙述する命題である。」

 それゆえ彼は、ハートの二次的ルール(承認のルール)を次のように批判する。

「原理が法的原理となるためにいかなる制度的支えがどの程度必要かを明示したり、ましてや原理の重要性に一定の等級づけを与えるためにどの程度の制度的支えが必要かを明示するような定式を考え出すことは不可能である。」

 原理は原理それ自体で自律的に存在している。ポスト形而上学時代の法理論家ドゥウォーキンは、さすがにそこまで露骨には言わないものの、ほとんどそのような構えを持っている。

 原理を支えるのは人々の承認なんかではない。それはそれ自体で絶対的な原理なのだ!

 言葉をちょっと換えれば、ドゥウォーキンは結局そう言っているとしか読むことができない。


2.原理

 ドゥウォーキンが何度も例に出す「原理」として、次のものがある。

「いかなる者も自ら犯した不法により利益を得てはならない。」

 これは普遍的な原理だ、とドゥウォーキンは言う。説得力はあるだろうか。

 われわれは、うまく不法行為を犯してそれで利益を得ることを、必ずしも絶対悪とは考えないのではないか。自分がそうすることができたとしたら、「しめしめ」と思うことだってあるだろう(プラトン『国家』における、ギュゲスの指輪のエピソードを思い出す)。しかしさしあたり、われわれは不法行為によって利益を得てはならない、とされている。なぜか。それは、私たちがそうしたほうがいい、と考えているからだ

 つまりこの原理も、結局はわれわれの「承認」によって支えられているのだ。われわれの承認や合意と無関係に、絶対的に自律している「原理」などあり得ない

 ドゥウォーキンの理論は、決してハートを越えていない。むしろ退化させている。私はそう思う。

 ちなみにドゥウォーキンは、「承認のルール」(ドゥウォーキンはこれをより広く「社会的ルール」と言い換える)など実在しない、と主張することで、ハートを批判しようとしている。

 しかしこれは、的外れな批判というほかないだろう。
確かに、あるルールをルールたらしめる絶対的な制度(社会的ルール)などはない。

 しかしそれでも、あるルールをルールたらしめているのは、最終的には人々の「承認」であるほかないのだ。絶対的な「承認」のシステムはない、だから「承認のルール」という考えは誤りである、したがって絶対的な「原理」がある、という論法は、めちゃくちゃだと私は思う。むしろわれわれは、いかにしてこの承認のルールをできるだけ十全なものにしていくことができるか、と、問う必要があるはずだ。


3.権利絶対主義

 ドゥウォーキンが最終的に守りたいもの、それは個人の「権利」だ。

「権利の主張の中枢は、〔中略〕個人には社会全体の利益を犠牲にしても多数派に対して保護を受ける資格があるということである。」

 これを、権利絶対主義と呼んでもいいと思う。

 ドゥウォーキンは、真摯で真剣な、ほんとうにいい人なのだと私は思う。
  
 しかしこれは、決して原理的な考えではない。

 確かに「権利」は、法理論における最重要の概念だ。しかし「絶対」のものではない(ドゥウォーキンは巧妙にも「絶対」とは言わないが、その論述から彼が権利絶対主義であることは疑えないように思う)。

 「権利」とは、すべての人ができるだけ自由に生きることができるために、われわれ人間が長い年月をかけて作り上げた「約束事」なのだ。

(法や社会原理については、ヘーゲル『法の哲学』で提示した原理がいまだに最高峰にあると私は思う。しかし現代法・政治哲学の理論家たちのほとんどは、ヘーゲルに言及することがまずない。悪イメージのレッテルゆえか、その超難解さのゆえか。いずれにせよヘーゲルを無視した法・政治理論は、哲学史的に言っても中々成立し得ないと思うのだが。)

 ドゥウォーキンが言うように、確かに多数派に対して個々人の権利を保護することはとても大切だ。しかし残念ながら、それを「絶対に」というわけには中々いかない。

 ハート『法の概念』で、ひどい犯罪がはびこった時、いわば「警告」の意味を込めて、その犯罪に対してこれまでよりも重い刑を課すことだってありうる、と言っている。
 
 ドゥウォーキンの考える「個人の平等な権利」という観点からすれば、それは決して許されないことだろう。その時の犯罪者は、これまでの犯罪者と「平等」に扱われていないのだから。

 しかし現実的に言って、より重い刑が必要だと人々に「承認」された時、ハートの例はある程度の正当性をもって起こりうる。もちろん、何をもって「承認」されたといいうるかを絶対的に決定するのは不可能だ。したがって、異議申し立ての機会は十二分に開いておく必要がある。しかしいずれにせよ、法の妥当性は何らかの権利の絶対化にではなく「相互承認」にしかない。

 「状況によって」「程度問題」「バランス問題」という、ちょっと身もふたもない言葉を、私はドゥウォーキンをはじめとする多くの現代政治理論家たちに言いたいと思う。

 多くの現代政治理論家たちには、何らかの絶対的な立ち位置を定めたいという隠された動機がある。白か黒かはっきりさせたい、という構えがある。だから、何が白で何が黒かをめぐって、延々と終わらない議論を続けている。

 しかしこの世に白か黒かはっきりさせられることなんてほとんどない。法や正義の問題に関してはなおさらだ。どうすれば、できるだけみんなが納得できるようなバランスのとれた考えを提示できるか。こんな単純な発想でこそ、終わりなき現代政治理論の混乱を終わらせることができる。


「この理念こそが正義に適っている」「これこそが絶対的な法の理念だ」

 などと主張することはもうやめたほうがいい。

「この場合にはこの程度の考えでやっていくのがとりあえずみんなの納得が得られる妥当な線じゃないか」

 実に身もふたもないけれど、このような論じ方をしない限り、政治理論をめぐる信念対立はいつまでも終わらない。


(苫野一徳)


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