アリエス『〈子供〉の誕生』

はじめに

 日曜歴史家と言われたアリエス。
Foto de Philippe Ariès
 大学教授の職を得ることなく、独自に歴史研究を続け本書を書いた。

 本書出版の後は大学に職を得たが、こういう市井の歴史家を育むフランス社会も、市井の歴史家を雇い入れたフランスの大学も、なかなか度量が大きいものだと私は思う。

 本書は、中世ヨーロッパには「子ども」の概念がなかったことを論証したものとして有名だ。この論証にはその後多くの批判が寄せられたが、教育学の世界ではおおむね、アリエスの主張は受け入れられていると言っていいだろう。

 「子ども」は近代が作り出した概念である。同年齢集団からなる、今では自明だと思われている学校制度も、実は近代の産物だ。

 いわゆるアナール学派に属するアリエスは、歴史的事件を積み上げる歴史学とは違い、人々の心性を描くスタイルをとる。慣れないと結構読みにくいし、ほんとうにそう言えるの?とつっこみたくなるところも所々ある。

 しかし、中世ヨーロッパの人たちはこんなことを感じ考え生きていたのか、とその一端に触れられる、やはり名著と言うべき作品だ。


1.本書における2つのテーゼ

 アリエスが本書で明らかにしようとしたことは、次の2つだ。

 1つは、中世ヨーロッパには現代人のいう「子ども」の概念がなかったということ。

「子供期に相当する期間は、『小さな大人』がひとりで自分の用を足すにはいたらない期間、最もか弱い状態で過す期間に切りつめられていた。だから身体的に大人と見倣されるとすぐに、できる限り早い時期から子供は大人たちと一緒にされ、仕事や遊びを共にしたのである。ごく小さな子供から一挙に若い大人になったのであって、青年期の諸段階をすごすことなどない。」

 中世ヨーロッパにおいて、子どもは働けるようになるとすぐに家族を手伝って仕事に従事した。「子ども」は守り育てるべきものとする、そのような考えは当時ほとんどなかったのだ。

 2つめのテーゼについて、アリエスは次のように言う。

「第二のそれは今日の産業社会のなかで子供と家庭とが占めている新しい地位を示そうとするものである。」

「教育の手段として、学校が徒弟修業にとって代った。つまり、子供は大人たちのなかにまざり、大人と接触するうちで直接に人生について学ぶことをやめたのである。〔中略〕この隔維状態とは学校であり、学院である。」

「けれどもこの隔離は、家族内での意識の変化をともなっていないなら、現実のうちで可能であったはずはないであろう。この意識・感情の変化が、私が強調したく思っている現象への第二のアプローチなのである。」

 学校ができて、「子ども」の概念が急速に広まっていった。子どもは無垢無知で、守り育てなければならないものだという考えがわき起こってくる。

 このような考えは、確かに学校の出現など、社会状況が生み出したものではあっただろう。

 しかし同時に、親たちの間にも、それまでとは異なった子どもに対する意識の変化があったはずだ。それを明らかにすることが、本書におけるアリエスの目的である。


2.子ども期の発見

 第1のテーゼを証明するため、アリエスはさまざまな史料を分析する。

 中でも興味深いのは、中世の絵画についての考察だ。アリエスは言う。

「ほぼ十七世紀までの中世芸術では、子供は認められていず、子供を描くことが試みられたこともなかった。」

「描かれた八人の人物の背丈のみが唯一、かれらを大人と区別させるにすぎない。」

 それはなぜだったのだろう。アリエスは次のように言っている。

「生き残ることさえおぼつかない子供があまりにたくさんいたのであった。そのうち幾人か生き残ればよしとして子供を多数もうけるという意識は非常に強固であったし、長い期間にわたり存続した。」

 しかし16世紀になって、ついに子どもの肖像画が登場する。死んだ子どもの思い出を、いつまでも残しておこうとする親たちが現れたのだ。

「死んだ子供の肖像画が十六世紀に出現したことは、したがって感性の歴史の中では非常に重要な一時期を画しているのである。」

 そして言う。

「子供だけが単独に描かれる肖像画の数が増大しありふれたものになっていくのは十七世紀のことである。」


 子ども服についての考察もおもしろい。

 アリエスは言う。17世紀まで、子ども服というものはなかった。子どもたちは皆、大人と同じデザインの、そして大人のお古を着ていたのだ。

 しかし「十七世紀になると、貴族であれブルジョワであれ、少なくとも上流階級の子供は、大人と同じ服装はさせられていない。本質的なことは次のことにある。すなわちそれ以後になると、子供の時期に特有の服装があらわれ、それは大人の衣服とは区別されるということである。」

 もっともこのことについては、その後結構批判もあったらしい。子ども服は昔から存在していた。ただ肖像画を描くときに、子どもたちは大人の服を着せられていたのだ、と。それは確かに、そうだったかも知れない。

 アリエスはまた、遊びについても、子ども特有のものは当時なかったと言っている。

 今では子ども向けの物語も、かつては大人が楽しんだものだった。

 仮装は、かつて貴族たちの遊びであった。
 
 輪回しすら、かつては大人たちの遊びだった。

 そうした昔の大人の遊びは、時が経つにつれ、下層階級や子どもたちのものとして保存されていくようになる。仮装は子どもたちの楽しむものとなり、また下層民たちの間でカーニバルとなる。一方大人の側では、かつての遊びはスポーツとなった。

 性的なものについてのアリエスの考察も興味深い。

「現代のモラルの、最大の厳格さと畏敬の払われている不文律の一つに、大人が子供を前にして性に関係したあらゆるほのめかし、ことに猥談を口にすることを強くいましめることがある。この感覚はまさしく旧社会のあずかりしらぬものであった。」

 その理由として、アリエスは次のように言っている。

「性的なものへの言及が子供の無垢を穢し得かねないという感覚が、実際の面でも世論の中にもまだ存在していなかったことがあげられる。この無垢というものが、本当に存在するのであるという観念はもたれていなかった。」

 無垢な存在としての子ども。中世ヨーロッパには、そのような観念がそもそもなかったのだ。


3.学校の登場

 では「子ども」の概念は、どのように誕生したのか。

 その大きなきっかけを、アリエスは学校の登場に見出している。

 中世と近代の学校は、その根本からして異なっている。

「中世の学校は聖職者を補充する必要から生れるのである。」

 したがってそこで行われる教育も、ひたすら暗記、反復練習にあった。

「生徒は全員一緒に教師の唱える言葉をくりかえし唱え、それを完全に暗記するまで反復練習するのであった。」

 そして中世の学校には、現代の私たちが当たり前だと思っている、段階的プログラム同年齢集団への教育というこの2つがなかった。

「最も容易で近づきやすい科目から始めて、難易性にしたがって学業上の科目を配列するという、段階化されたプログラムに従う教育という思想は、中世の学校には存在していなかった。」

「中世は年齢と学業段階のあいだの対応関係を全く知らないでいる。」

 まだ子どもが発見されていなかったのだ。生徒たちは、ただただ「生徒」ということでひとくくりにされていた。

 それがやがて変化し始める。学校に学級ができ、規律システムができあがっていく。子どもは弱い存在だという観念が、大人たちの間に形成されていく。そして教師は、彼らに対して責任をもっているのだと。アリエスは言う。

 18世紀末、「子供たちは社会において他の年齢の人びとから隔離されるようになる。少なくともブルジョワ市民にとって、子供を別の世界、つまり学校の寮の世界にとじこめることが重要なこととなる。学校はこの幽閉のための手段なのである。」


4.家族意識の誕生

 家族意識もまた、近代の産物だ。そうアリエスは言う。中世ヨーロッパにおいては、家族(famille)よりも系族(lignage)の方が重要だった。

「家族と系族の間には、区別というよりも、一方の進展が他方の衰退を誘発するといった対立が、少なくとも貴族においては存在していたようである。」

 しかしやがて、家族の重要性が増してくる。このとき強調されるのが、親子の身体的類似性だった。そうアリエスは言う。

 なかなか面白い指摘だ。アリエスによれば、かつて親子は、それほどお互いが似ているということの重要性を意識しなかった。
近代以降、家族がその絆を重視するようになってようやく、親子はお互いが似通っていることを重視するようになったのだ。

「十五世紀を起点として、家族の実体と意識が変換されていく。」

 そうアリエスは言う。なぜか。

「学校へ行く人びとの範囲が拡大されたのである。中世には、子供たちの教育は大人たちのもとでの見習修業によって確保され、子供たちが七歳から他人の家族のなかで暮していたことを、私たちは見てきた。その後は反対に、教育は徐々に学校で行なわれるようになったのである。」

「それはまた、自分たちの子供をもっと身近で監視し、自分たちのもっと近くにとどまらせ、たとえ一時的であろうともはや他人の家族にはまかせない、という親たちの欲求にも一致していた。」

 中世は、丁稚奉公やら徒弟修行など、子どもたちは親元を離れて教育を受けた。

 それが学校が普及していく過程で、親は子どもを、自分たちが育てるべき存在として意識するようになったのだ。

「中世末期から十六世紀・十七世紀にかけて、子供は親にたいしひとつの地位を獲得していった。〔中略〕このように子供が家庭に戻ったことは大きなできごとであり、中世約家族と一線を画する主要な特徴を、十七世紀の家族に与えているのである。子供は日常生活に欠かせない要素となり、人びとはその教育や就職、将来を思いわずらう。子供はまだ社会機構全体の軸ではないが、以前と比べてはるかに重要な登場人物になるのである。」


5.多様性への不寛容へ

 こうして、近代的「子ども」の概念が誕生した。つまり、無垢で無知で、守り育てなければならない「子ども」の概念である。

 アリエスはしかし、この概念が登場してくる動因をあまり論じていない。だから、はあなるほど、中世には子どもの概念があんまりなかったんだな、それが徐々に出てきたんだな、ということはつかめても、それがいったいなぜだったのかは、いまいちよく分からない。

 社会の経済構造の変化についての分析がほとんどないのも、不自然に感じる。おそらく最大の動因であっただろうが。(当たり前すぎて論じなかったのか?)

 もちろんアナール学派のアリエスからしてみれば、マルクス主義のように経済的動因に歴史現象の解を求めるよりは、人々の心性がどのように変化してきたのか、それを明らかにすることに関心があったのだろうけれど。

 さて、本書の最後で、アリエスは一種の近代批判にも似たようなことを言っている。

 かつて、子どもたちは多様で雑多な人たちと共に暮らしていた。

 それが今では、社会から隔離されて育てられるようになった。

 もはや親は、自分たちの子どもを雑多な人たちといっしょくたにしたくない。

 ここに、ブルジョワジーの心性が増長していった理由がある。

 そうアリエスは言う。

「家族の成員たちは、感情や慣れや生活様式によって結びつけられている。かれらは古い人間関係や社交関係によって押しつけられる過度な親密さをいとう。家族のもつこの道徳的影響力がブルジョワという現象の起源に存在したことは、よく理解されよう。」

「ブルジョワジーがもはやこのような多数の人間にとり囲まれて感じる圧力にも、下層民衆との接触にも、耐え切れなくなる時代がやって来る。ブルジョワジーは分離を行った。」

「かつては自然なことであった不平等の並存は、ブルジョワジーには許しがたいものとなった。富裕者の反発が、貧民のもつ恥辱の感情に先行していた。」

「家族の感情、階級の感情、そしておそらく他のところでは人種の感情は、多様性にたいする同一の不寛容さの表明として、画一性への同一の配慮の表明として、出現するのである。」

 それははたして本当だろうか、と思わないでもない。しかしともかく近代は、均一に区分される「子ども期」というものを発見した。あるいは作り出した。

 そうアリエスは主張するのだ。

(苫野一徳)

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